長い長い経歴

 考えてみれば、年をとってからの十年、二十年はもうあっという間に過ぎますから、この自分史は終活の第一歩としてネットの墓場に漂わせておくことにいたします。(ネット墓地はこれから絶対はやるビジネスではないでしょうか)

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 私グローン摩野は、昭和二十四年、兵庫県尼崎市の借家で、早朝駆け付けた産婆さんの手を借りて生まれた、と記憶はもちろんありませんが、そう聞きました。

 戦後、GHQの指導で、産婆さんは助産婦さんと名称が変わり、以後急速に出産の形態も変化していったそうですが、この時代はまだ自宅で出産することはそう珍しいことでもなかったはずです。

 父母が死ぬまで暮らしたこの借家は、国鉄立花駅の北口から商店街を通り抜けて五、六分のところにありました。

 立花駅は小さな駅で、入口からすぐ右手に薄暗い改札がひとつ、その横に黒光りした待合ベンチが据えられておりました。ベンチの上には窓があって、その窓から上りプラットフォームの下の部分を覗くことができたので、子供たちはそのベンチの上につま先立ちになり、走ってくる電車の車輪を見ては電車に乗っているような気分を楽しむのが一日の遊びの定番コースとなっておりました。

 もうそのころにはたまに幼稚園に通い始める子供もいたようですが、小学校に上がるまで、大方は、「あそびーましょ」と毎日誰かが誘いに来ていたように思います。

 電車遊びが終わると今度は踏切のそばにある田んぼに行き、そこに建てられていた看板によじ登ってはやってくる電車に向かって手を振り、電車の窓から誰かが手を振り返してくれれば大満足しておりました。後年、たしかウィリアム・サローヤンの小説だったと思いますが、電車に向かって手を振る子供たちに黒人の機関紙が手を振ってこたえてくれる、というような描写があり、どこの国の子供たちも同じことをするんだと思ったものでした。

 当時、国鉄(省線)立花駅と阪急武庫之荘および塚口の間にはまだ田んぼがいっぱいあって、春にはレンゲ摘み、夏には蛍狩りなども楽しめました。夜になると電灯の光につられてシオカラトンボが入り込み電球の回りを飛び回ってバタバタともがいていたのを覚えています。

 家の前には小さな川が流れておりました。いま思うとそれは田んぼ用の用水路だったのでしょう。暖かくなるとそこでフナやメダカ、ザリガニなどをとっていました。

 川の深さは、台風のときなどにはあふれて床下浸水になるときもありましたが、ふだんは小さな子供でも膝上くらいまでしかありません。夏などはよくそこに飛び降りて遊んでおりましたが、ある日、おそらくぬるりとした藻に足を取られたのでしょう、私は川の真ん中で仰向けにひっくりかえってしまい、身動きできなくなってしまいました。

 まわりでは遊び友達が「まやちゃん、まやちゃん」と大声で叫んでいるのが聞こえます。しかし、どうしても立ちあがることができないのです。

 顔の上を水がさらさら流れ、青い空と白い雲がはっきりと見えています。でも動けない。なぜか苦しいとも感じませんでした。

 そのうち、子供たちの声を聞きつけた近所のおばさんが、下駄のまま川に飛び込み、私を引き上げてくれました。すぐに母も血相をかえてかけつけ、

 「なんで、起きなかったのよ! なんでよ、あんな浅いところで!」と、半泣きで叱られましたが、なんで、と言われても自分でもわかりません。ただ、この経験から、幼い子供というのは風呂場でも溺れることがある、というのは実感として理解できます。


 昭和三十年前後のことですから、まだテレビなどもちろんありません。夜はラジオで「お笑い三人組」や落語などを聞いておりました。大人と一緒に笑ってはいたものの、本当に理解していたかどうか、春団治の「代書屋」、痴楽の「綴り方教室」、林家三平の「湯屋番」などもそのころ聞いていたように思います。

 電気はよく停電しましたねえ。停電になると、「それ、ヒューズ、ヒューズ、」の言葉がとびかい、ローソクは常備品でした。


 この頃のおやつは大方ふかし芋で、夏にはサトウキビをかじっていたこともあります。これはかじるというより「しがむ」といったほうが近く、固い茎を、顎がくたびれるほどくちゃくちゃしていると、かすかな甘みが感じられるという程度で、好きではありませんでした。

「はったいこ(麦こがし)」も定番でした。最初は砂糖を加えてそのままで食べ、むせるとお湯を入れて練り合わせて食べました。出されれば拒むことはなかったものの、サトウキビ同様、これもいま一度食べたいと思うおやつではありませんね。

 三つか四つころになると駄菓子代が与えられるようになりました。一日五円。朝いちばんのお楽しみはこれです。まだ一円札が流通しており、くちゃくちゃのお札を五枚握りしめて近所の子供たちと一緒に駄菓子屋に走っていくのが日課でした。お札は確か白っぽいひげの生えた老人の絵だったと思います。武内宿禰でしょうか。その後は現在の五円玉になりました。十円もらっている子供はお金持ちの家の子だと信じておりました。

 サツマイモよりちょっとましな定番のおやつだったのは飴です。昔は大人も子供もよく飴を舐めていたように思います。缶入りのドロップは子供受けのするお土産で、色とりどりのドロップの中で薄荷のドロップがあたると得をしたような気がしたものです。

 ふだんよく食べていたのはまんまるのカンロ飴や黒糖飴。もうひとつ、たしか味覚糖だったか、長細い六角柱の、まさにあめ色の飴、これも我が家の定番でした。

 この飴を寝る前に母にせがんだことがありました。今から食べたら眠ってしまうからだめ、という母に、絶対寝ない、と駄々をこねました。「絶対やな」「うん、ゼッタイ」「ゼーッタイやな」「うん、ゼーッタイ起きてる」。と、約束したものの、口に入れたとたん睡魔に襲われあっけなく屈してしまいました。

 朝になると気まずい思いで目が覚めました。おずおずと「飴、どうなった?」と聞くと、母はにやりと笑って、

「食べちゃった」


 ドーナッツも家でよく母が作っておりました。嬉しくてつい食べ過ぎます。すると次第に気持ちが悪くなる。その顔色を見て母が「え! 戻すの? 戻すんなら川、川」とあわてて私を川に連れていき、背中をさすってくれます。そういうことが続いたせいか、母は家でドーナッツを作る気が失せたようです。思うに昔はあまりいい油を使っていなかったのじゃないかと思います。


 当時はまだ夕方になるとお豆腐屋さんがラッパを鳴らしながら自転車で売りに回っていました。日々の総菜はどこの家も質素なものだったと思います。

 うちは母が忙しい時には夕食のおかずにスルメが出ておりました。スルメを焼いて細長く裂き、それにお醤油をからませたものがどんぶりで供されたのです。酒のつまみじゃあるまいし、よくあんなものをご飯と一緒に食べていたと、今思い出すとおかしくなります。酒を一滴も受け付けない父はスルメが出ると不満そうでしたが、私はけっこう気に入っていました。

 鯨肉は、給食でもゴボウと一緒に甘辛く煮たものがよく出ていましたが、家で食べるときは水菜と一緒に煮て食べるハリハリ鍋が一般的でした。というか、うちではハリハリ鍋以外でクジラを食べた記憶はありません。鍋に薄く切った鯨肉とミズナを入れ、煮立ったところにお醤油をつけて食べるというじつに簡単な料理で、これもスルメに劣らぬ手抜き料理のひとつだったかもしれません。


 ある夜、家で火事騒ぎがありました。今から思えば風呂場の火を消し忘れてしまったようです。近所の人々が一斉にかけつけ、私は恐ろしさのあまり母の胸の中で震えておりました。いきなりものすごい数の人々が夜中に一斉に現れたものだから火事よりもその人だかりに怖気づいたのです。

 幸い火事はぼやでおさまりましたが、以来家の風呂は調子が悪くなり、またのちにはその風呂場も店舗のスペースとなってしまったため我が家はみな銭湯に通うようになりました。

 家族と風呂に行って、上がり湯を使うころになると、母はよく私を使って男風呂にいる父に合図させました。

「おとうちゃん、出るよー」「おう」

 それはうちの家族だけでなく、どの家でもよく見られる光景でした。男湯からもよく「おい、上がるぞー」と声がかかります。声だけでわかるのです。

 あるとき私が声をかけても父からなかなか返事が返ってこないことがありました。そのとき私はふと「この壁にのぞき穴があったらいいのにね」と母に言いました。「穴って、あんた、そんなことしたら」母はぷうっと吹き出してけたけた笑い出します。まわりの人もそれを聞いていて母と一緒に笑いころげました。「そら、男はんは喜ぶやろう」

 私はそれが画期的なアイデアだと思ったので、なんでみんながそんなに笑い転げるのか、長い間ちっとも理解できないでいました。


 小学校の半ばころには一人でも銭湯に行くようになりました。十五円ぐらい払っていた時期を覚えています。

「いったい、どこを洗ってて、そんなに遅くなるのよ!」と母によく言われたように、子供のくせに長風呂で、銭湯好きはそのころから始まっていたようです。

 銭湯はよく通っていましたが、毎日ではなかったと思います。髪を洗うのも一週間に一度か二度程度、髪を洗うときは洗髪料を払いました。洗髪料をとるのは女湯だけでしたが、のちに長髪が流行るようになると男湯でも長髪には洗髪料を払うべきだと論争になったのを覚えています。

 風呂屋の体重計は尺貫法でした。銭湯に行ったら体重は必ず図るものと決まっていて、「はい、きょうは何貫目」と、毎度母に告げられました。小学校ではメートル法で教わっていたはずですが、そのあとも体重に関してはかなり長いあいだ何貫目と言っていたように思います。

 そういえば「豚肉、百メ、買ってきて」と、よくお使いに行かされましたが、肉も匁で測っていました。パンも一斤、二斤でした。

 あれはおそらく尺貫法からメートル法に切り替わったあとのことに違いありません。着物の仕立てをしようとした人が「鯨尺を買いに行ったらどこにも売っていない、余分にもっていないか」と、母に聞きに来たことがありました。一本あげて非常に喜ばれました。ところが、その後もまた鯨尺を求める人が来たものだから、母はさすがに今度は断り、あげないで貸してあげていました。

 尺貫法の切り替えはかなり徹底していたようです。


 小学校に上がる前まで普段は下駄をはいていました。この下駄の鼻緒が、当時まだ素材が良くなかったせいか、やたら切れるのです。

 ある日また片方の下駄の鼻緒が切れ、両方裸足になればいいもの、切れた片方をぶら下げて、ぴょこんぴょこんと歩いているのを近所のおばさんが見とがめました。「あれ、まやちゃん、鼻緒が切れたんか」と言って、おばさんは私が手にしていた下駄をとりあげ直してくれました。私は片足をもう片方の足に乗せ、鼻緒を綴ってくれているおばさんの肩に手をかけてその手先を黙って見つめていました。

 「はい、できたよ」と言われても私はお礼も言えずに黙って帰ってくるような子供でした。母はあとですぐに気がついて「あれ、鼻緒を直してもらったんか。ありがとう、言うたか」と聞かれても首をかしげることしかできません。

 ただ、誰に直してもらったかは伝えられたとみえ、あとで道でそのおばさんに会うと「子供の鼻緒を直してもらったようで、ありがとうございました!」と甲高い声で母が叫んでいたことを覚えています。


 我が家は、徹頭徹尾、宗教色のない家庭で、仏壇などもちろんなく、いわゆる冠婚葬祭といった類の、義理とかしきたり、などというものを悉く馬鹿にするような家風でありました。といって、一般的な常識を欠いていたとは思いません。

 小学校3年か4年のころ、友達と二人きりで私の家で遊んでいた折、なんのはずみか、毛糸の編み棒が友達の足首のあたりにぐさりと刺さってしまい慌てたことがありました。気丈な女の子で泣きもせずなんとか編み棒を引き抜くことができましたが、帰ってきた母は、その話を聞くと、私を連れてその女の子の家に手土産をもってお見舞いに行きました。そういうことはおそらく社会習慣上、当たり前のことだったのでしょう。


 小学校に入るときには簡単な試験がありました。おおむね出来ましたが答えられない問題が二つありました。ひとつは「この図形はなんといいますか」と問われ、「ひし形」がわからない。もうひとつは「飛行機と船の違いは何ですか」と言われ、なんのことやら質問の意味さえわかりませんでした。試験官の先生が「飛行機は、ほら、どこを飛びますか」と、飛行機の真似までして必死になってわからせようとしてくれたのですが、これは私にとってものすごい難問でした。とにかく飛行機と船とを比べる意味が飲み込めないのです。この質問は後々まで尾を引きました。


 幼稚園には行きませんでしたが、すでに文字は憶えていたと思います。ただ、あるとき試験用紙をもらったら、「こたえを〇でかこみなさい」と書かれてあります。なんのテストだったか覚えていませんが、答えは全部わかりました。ところがこの〇で囲むという意味が理解できない。その結果、「〇で囲む」という指示を文字通りとって答えの周りにずらずらと〇を数珠のようにして繋いでいったのですが、当然のことながらそれではとても間に合わず、ほとんどできないまま時間が過ぎて泣きべそをかきそうになりました。

 そういう馬鹿な子供ではありましたが、成績は悪くはなく、小学校でも中学校でもいつもクラスの委員長をやらされておりました。これは実に苦痛でした。学級通信のガリ版刷りの作業などはわりと好きでしたが、当時は先生も忙しかったのでしょう、試験の採点まで手伝わされることもありました。

 何よりもいやだったのが、クラスのまとめ役です。とくに小学校六年生のときは中年独身男性の担任教師とウマが合わず、何か事があるとすぐ委員長の責任だと責められるものだから、毎日学校に行くのが憂鬱で、本気で「死にたい」、と、毎晩布団の中で息を止めてみましたが、それでは死にませんでした。

 いちど夢遊病の症状を呈したのもそのころのことだったと思います。

 学校から帰ると、母に「おかえり。それはそうと、あんた、ゆうべ、いったいどうしたのよ」と言われ、なんのことやら、きょとんです。「あきれた、あんた、おぼえてないの? ほんとに?」

 聞くと、私はいつものように九時ごろ寝床に入ったものの、やおら起き出して玄関から出ていこうとしたそうです。親は驚いて、「あんた、いったい今頃どこへ行くつもり?」と問いただすと、私は「学校へ行く」と言い張ったそうです。なんとかなだめすかせて、やっとまた私を寝床に戻したところが、まるで何事もなかったのようにすやすや寝入ったといいます。

 行きたくもない学校に、なんで夜中に起き出してまで行こうとしたのか、我ながら理解に苦しみます。


 待ちに待った小学校の卒業が近づき、なぜかその卒業式では私が送辞を読むことになりました。

「いつもは先生が作るけど、今年からは卒業生が自分で送辞を作ることになったからそのつもりで」と担任教師が言ったので自分なりに考えて作ってみました。それをもっていくと担任教師は顔をしかめ、翌日こう告げました。「言いたいことはよくわかる。でも今回は先生の文章で行こう」、そしてさらに「いや、言いたいことは本当によくわかってるからね。君の言いたいことは全部この文章の中に入っているから」と付け加えました。私はべつにどっちでもよく、そんなことなら最初から作ってくれればよかったのにと思っただけです。

 式の前には何度も家でこの新しい送辞を読んで練習していました。

「暖かい先生方の愛情に包まれ、なんたらかんたら」

 聞いていた母が、「それ、先生が書いたんか?」と聞くので、「うん」というと、

「よくまあ自分でそんなことが書けるもんだ」と苦笑いしていました。

 そう聞いたのは、母は私が書いた送辞も知っていたからでしょう。

 自分で書いた送辞がどんなものだったかまったく覚えておりませんが、残しておけば面白かったのにと思います。

 この先生は卒業にあたって文集を作り、生徒ひとりひとりに言葉を贈りました。

 私には「気が弱いのが難点だ」と書かれてありました。


 先生方の思い出がすべて悪いものだったわけではありません。

 不器用だった私は工作や図形の時間が苦手で、定規を使って作図するのがいつもものすごい苦労でした。まだ低学年のころだったか、あるとき、星座表を作る宿題を言い渡され、それはもう四苦八苦してやっとなんとかこしらえあげました。翌日、隣の席の女の子が作ってきた星座表を見ると素晴らしい出来栄えです。なにしろ美しい。私は心から感心し、他の級友も口々に誉めそやしました。それに引き換え、わが星座表の無様さよ。

 ところが、順番が来て先生の前に提出すると先生はなんと私の図に五重丸をくれ、その女の子の作品には一重丸しか与えなかったのです。私は心底驚きました。フェアでないと思いました。

 ふだん自分から教師に話しかけたりすることはなかったのですが、このときばかりは「なんで〇〇さんの星座表はあんなにきれいのに一重丸なのか」と担任の若い女の先生に聞いてみました。すると先生はにっこり笑い「それは正確ではないからよ」と言われたのです。

 この宿題は星の位置関係を正確に表すことが課題であって、図の美しさを第一義的に求めるものではない、と、そんな言葉で言われたわけではないけれど、この先生はそれを私に教え、多少なりとも自信を与えてくれました。この同級生は星座表を作り始めているうちにきっと楽しくなっていったのでしょう。星座表ではなく絵を描いてしまったのです。そういえばやたら星が多かったのを覚えています。


 絵といえば、小学校では担任教師がほぼすべての学科を教えていましたが、絵だけは特別の教師がいました。若い男の先生で、背が高く、とっくりの黒っぽいセーターを着て、これでベレー帽でもかぶれば見るからに画家そのものです。

 この先生はとにかく生徒を褒めてくれました。「ああ、ええなあ」と、誰がどんな絵を描いてもまず褒めてくれました。同級生の男の子たちの中では「あの先生はなんでも褒めるんや」と、かえって信用をなくしてしまった感がありましたが、そういわれていることを知りながらも先生は褒め続けました。

 私は特に褒められました。私の絵を見ると、もう感に堪えない、という風に首をふって「ああ、ええなあ」とおっしゃるのです。

 ところが、この先生が絶対に褒めない絵がありました。絵具をほとんど使わず、ふんわりと仕上げたパステルカラーの絵でした。それを描いていた同級生は物静かで上品な女の子でした。この同級生と私は同じクラスになるといつも私と交代で級長をやっておりました。

 私は彼女が私同様、いや私よりもっと、このクラス委員という役割に苦痛を感じていたことを知っています。一学期と三学期は私、二学期は彼女が引き受けました、というか引き受けさせられました。委員の選出ではいちおう投票はするのですが、子供というのはけっこう保守的で、だいたい衆目の予想通りに投票するものなのです。二学期になると私はいつも解放感を味わっておりました。

 私は彼女の絵が子供ながら技術的にも芸術的にも優れていたと信じています。この人がもしプロのイラストレーターになっていたとしても驚きません。けれども、この先生は彼女の絵を見るたびに「薄い、薄い、うすーい」と叫ぶのです。べたべたに塗りたくった絵をこの先生は好みました。これは教育的見地からそういったのか、どうもよくわかりません。

 私の絵は暗かった。この先生は暗い絵が好きでした。私は好んで暗くしたつもりはありませんが、なにしろ不器用なので絵具を塗っているうちにそうなってしまうのです。

 あるとき歯磨き奨励週間みたいなものがあって、そのための絵を描くことになり私の絵が選ばれて廊下に張り出されました。真っ黒なべたべたの顔に真っ白な歯が浮き出ている絵です。

 この絵の前を通るときは拷問でした。毎日「早くはずしてー」と心の中で叫んでおりました。

 何十年も経ってふとこの絵のことを思い出したとき、ひょっとしてそんなにまずい絵ではなかったかもしれない、と、ようやく思えるようになりました。ルオーの絵を見てそう思えるようになったのかもしれません。返してもらったときすぐに破って捨てましたが、破かずにおいておけばよかったと思います。


 学校給食は私の時代ではすでに小学校一年生のときから始まっており、最初の年度は父兄が交代で当番をしていました。飲み物は、当時、多くの子供たちが苦しめられたといわれる脱脂粉乳です。

 長いこと大っぴらには言えませんでしたが、なにをかくそう、私はその脱脂粉乳が大好きでした。飲み終わると必ずお代わりをもらっておりました。

 ある日、三杯目のお代わりをもらいにいくと、当番のお母さんに「またあ? もうだめ、他の子の分がなくなるから」とじゃけんに言われ、ひどく傷つきました。けっきょく残ってしまったものだから、そのお母さんは私にあらためて「いる?」と聞きにきたのですが、私は首を強く横に振りました。

 以来、自分からお代わりをもらいに行くことは二度とありませんでした。お代わりをもらいにいくのはいつも決まった一人の男の子でしたが、その男の子と一緒くたにされるのはいやだという、幼いながら女の子の見栄もあったのです。頼まなくてもお代わりを入れに来てくれるお母さんはとてもいい人だと思ったものです。

 脱脂粉乳が牛乳に変わったのは小学校の半ばころでしたか。教室でそれはビッグニュースでした。牛乳になるんだって、と不安そうに言っていた級友たちはみな脱脂粉乳が苦手だった子供たちで、今よりさらに困ったことになるのではないかと心配していたのでしょう。

 私にかぎっていえば、脱脂粉乳でも感激していたぐらいですから、牛乳となるとものすごく贅沢に感じました。

 まもなく家でも牛乳を買うようになりましたが、牛乳瓶から飲む牛乳は実に美味しかった。

 家で飲むとき、飲み終わると母はいつも自分の瓶の最後の一口を私に与えてくれました。そのおまけの一口はとびきり美味しいと感じました。

 ある日、母がいたずら心からか、あるいは機嫌が悪かったのか、自分の瓶を最後まで飲んでしまい、「はい、今日はおしまい!」と言ったとき、私はこの世の終わりかと思うほど落胆したものです。

 ただ、牛乳が手の届くころになっても家では雪印のスキムミルクは常備品でした。当時は牛乳より安かったからでしょうが、飽食の現代では無脂肪のミルクがダイエット目的に転じて飲まれるようになるのだから皮肉なものです。


 小学校に上がる前にはまだ紙芝居屋さんが来ていました。見物料に駄菓子などを買って見るのですが、私自身は買ったことはありません。

「あきれたわ、柿の皮を五銭で売ってたんだから」と母が言っていたことを考えると、母には「紙芝居屋さんで買ってはいけない」と言われていたのかもしれません。

 私が覚えているかぎり柿の皮を食べているような子供はいませんでしたから、柿の皮まで売り物にしていたというのは本当に物のない終戦直後のことだったのでしょう。

 たとえタダのものを売っていたとしてもたいした儲けにはなるまいし、紙芝居という商売も楽ではなかったと思います。

 紙芝居屋さんが売っていた駄菓子は水あめが多かったと思います。水あめは家でも食べていました。

 水飴というのはただねぶっていればどうということはないのですが、ふとしたはずみに噛んでしまうとえらいことになります。確たる記憶はないのですが、水あめと聞くと、口の中でねちねちした飴が歯に食い込んでがんじがらめになり、口を開けることもできなくなるというパニック光景が浮かんできますから、きっとそういう経験があったに違いありません。

 「はい、〇〇ちゃんはこっち、こっち」と紙芝居屋のおじさんの誘導に従い、ものを買った子供たちは前のほうで見て、ただ見の子供たちは後ろのほうで見ておりました。

 ただ見しながら言うのは恐縮ですが、紙芝居の絵はなんだか暗くて不気味でした。おまけにストーリーも不気味でした。若い女がさらわれて大きな壺の中に頭だけ出して閉じ込められているのです。よくまああんなものを子供に見せていたものです。

 漫画家の水木しげる氏も紙芝居からスタートされたそうですが、絵柄を見るとなんとなく納得するところがあります。


 小学校は古い木造の校舎でした。夏の暑さに苦しんだ記憶は残っていませんが、冬はとにかく寒かった。ストーブがあるのは保健室だけでした。

 冬になると必ず足も手もしもやけになって指は風船のように膨らみました。お湯などにつけて暖かくすると痒くて痒くてたまらず、このしもやけには毎年本当に悩まされたものですが、中学生になると自然に収まっていきました。

 寒かったのは家も同じで、ただ学校と違って家には炬燵がありました。豆炭を使った炬燵です。

 火鉢も使っていました。まずガスコンロの五徳の上に練炭を入れた火おこしをかけて練炭をいこし、いこった練炭を火鉢に移します。次にその火おこしに今度は豆炭を入れて練炭火鉢の五徳にかけ、炬燵用の豆炭をいこすのです。

 あらためて気が付きましたが、「いこる」などという言葉は練炭や豆炭とともに滅びてしまったようです。

 このころは私がまだ小学校にあがる前だったでしょうか。母はふだんは洋服でしたが、冬にはいつも着物を着て割烹着をつけていました。冬に着物を着たのは、着物のほうが暖かかったからだった、と後になって言っていました。

 火鉢はお餅を焼くときはもちろん、トースター代わりに使ってパンも焼いていました。時間はかかるけれどこんがり焼けてなかなか美味しかった。祖母が家にくるとよく火鉢でミカンを焼いていましたが、私は一度食べたきりで二度と焼きミカンを口にしようと思ったことはありません。

 夜は湯たんぽか豆炭のあんかを使っていました。それが電気あんかに変わり、さらに電気毛布になったときは、これが究極の寝床暖房かと思ったものです。

 豆炭の退場とともに母の着物姿もなくなりました。伸子針を抜いたり、糊付けの布をバリバリはがしたりと、遊び感覚で手伝っていた、伸子張りや板張りの光景も見られなくなりました。


 私が中学生ぐらいのときだったか、ある日、父が突然思い立って自家製の堀炬燵を作り始めました。床を切って穴を掘り、そこにブロックを置いて真ん中に長いホースをつけたガスコンロを据え付けたものです。ガスコンロの回りはブロックで囲み、上のほうも少しの隙間を残してブロックで覆い、そして足を乗せる板をつけました。

 家に友達が遊びに来た時、この炬燵がガスと知って驚きました。

「えーっ! この炬燵、ガスなの?! ガス炬燵なんて聞いたことない。こんなの、世の中であんたとこだけよ」

 確かにそうでしょう。ただ、八人が座れるこの大きな炬燵は実に暖かかったのです。件の友達もそれだけは褒めてくれました。

 火は中火にしても熱すぎるぐらいで、弱火で十分でした。電気と違ってオーバーヒートする心配はありません。ただ、消すのは火元でも元栓でもひねればすぐに消せましたが、点火するときは炬燵の奥深く潜り込まねばならず、あまり人前では見せにくいのがちょっと難点でした。

 たまに、ぷはーっと炬燵の中から這い出てきた、ネコの長ーい尻尾の先っぽがチリチリになっていることもありましたが、これはネコの自己責任でしょう。

 今だからいえますが、この炬燵はガス会社や消防署などに知られたら叱責されていたに違いありません。


 猫といえば、うちに最後にいた猫は「ネコ」と名付けられた雌猫でした。この雌猫が非常な発展家で、悩まし気な声を出していたかと思うと年に三回ぐらい出産を繰り返していました。母はネコのお腹が大きくなる度に「えーっ、また?」とあきれ、「あんた、たいがいにしなさいよ」とネコを前にして説教していましたが、そんな説教はまるで役に立ちませんでした。

 当時、猫なんて、自分の家の猫だと思っていたらいつの間にかよその家の猫になっていた、あるいはふらりと家に入ってきていつの間にか家の猫になってしまった、てなことがよくありましたから、そういう自由きままにふるまっている猫に避妊手術を施すなどという考えは思いもよりませんでした。したがって、一回の出産で平均四匹生んでいたとすると、生まれた子猫の数は合計五十匹は軽く超えるはずです。

 生まれた子猫たちは、幸いにも、店に「かわいい子ネコあげます」と張り紙をすればすぐに引き取ってもらえました。

 その張り紙があまり頻繁なので、いつでも子猫がいると思い込み、遠いところからわざわざ訪ねてきた人もありました。子猫がいないとわかるとがっかりし、次の予約をしていった人もいました。予約注文は速やかに満たされました。


 小学校のときはさほどでもありませんでしたが、中学生になると途端に団塊の世代の特徴が際立ってきました。一学年13クラス、一学級54名。転校生などが入ってくるとそれが57名になることもありました。先生も大変だったでしょう。生徒の名前を憶えきれていない教師もいましたが、無理もありません。

 中学生になってまたクラスの委員をやらされました。もっとひどいことにはクラス委員が生徒会の役員に立候補することになっていました。そもそも立候補の意味がわからない。委員などやりたくてやるのではなく、やらされるものだと思いこんでいたから、当選させてもらうために選挙活動をするという考えにまずついていけません。また運の悪いことに生徒会とは何をするのかもわからない状況で演説をしなければならなくなり、その順番が二番目でした。いま思い出してもぞっとします。全校生徒を前にして言葉を失い、ひどい醜態をさらけ出しました。当選しなかったのは慰めともいえましょうが、それはそれで別の自尊心が傷つきました。


 楽しいこともあったはずですが、学校は総じて苦行でした。それでも学校とは行かねばならないところだと思い込んでおり、遅刻、欠席など思いもよりません。毎朝必ず始業時間の少なくとも三十分、大方は一時間以上前には学校に到着していました。それは小学校のときは友達とドッジボールをするためでしたが、中学、高校になってもその習慣は変わりませんでした。

 あの有名な伊勢湾台風は私が十歳のころだからそのときのことかも知れませんが、ある朝、台風により休校になったと寝床の中から母が告げました。「よかったな、今日は学校、行かんでもいいんや、得したな」

 しかし、私は信じませんでした。「ほんとだってば、ラジオで言ってるんやから」と母が言い、さらに父もそうだと保証したにも関わらず、私はまだ信じませんでした。

 何度かやり取りした後、ついに母が根負けしました。「そんなに言うなら、行って、自分で確かめておいで」

 学校に行く途中で、引き返してくる級友に出会いました。彼も信じない口だったらしい。それでやっと納得して家に戻りました。

 こういうつまらぬ規範意識はいったいどこから芽生えたものか我ながらじつに不思議です。


 小学校も二年目になると、朝は5時過ぎに起きて、家族が寝ている間に朝食のパンを買いに行くのが日課になっていました。パン屋は6時にならないと開かないので開くまで何度も見に行きました。待っているのをパン屋のおばさんに見られるのが恥ずかしくて電柱の陰からのぞいたりしていましたが、そんなことをしても丸見えだったのだと後々気がつきました。

 母は「たとえ貧乏暮らしでも、ひとつ有難いのは朝寝ができること、世の中に寝るほど楽はなかりけり」という言葉を口癖にしていて、寝ているものを起こすのは罪であると常々言っておりました。そういうわけで母が朝起こしてくれることは期待できなかったのです。

 もっとも、起こしてもらうまでもなく起きてしまうたちであり、子供のころはとにかく朝は「もっと寝てなさい」とよく言われました。昔はきっと寝る時間も早かったのでしょう。

 朝いちばんに買ってきたパンを食べ、トイレに行って、家族が寝ているうちにさっさと学校へ出かけました。そういう意味では手のかからない子供だったはずです。


 小学校に入学するときはランドセルに教科書を詰めていたことを覚えています。あのつーんとくる皮のにおいも記憶に残っています。誰かのお古だったのでしょう。ただ、ランドセルを使っていたのは最初のうちだけで、あとはずっと布カバンを使っていました。それは高校生になってもそうでした。

 中学校も高校も、制服ではなく、紺のセーターに紺のプリーツのスカートをはいていました。頼んだわけではないけれど、母が作ってあげる、というので後には商売ものの服地で制服を作ってもらいましたが、指定の色や形と違うのでかえって目立ったかもしれません。当時はうちだけでなく制服を買う余裕のない家庭もまだありましたから、制服については学校側もそう厳しいことは言いませんでした。

 それでもいちおうクラスの委員が担当する風紀委員なんてものもあって、門のところで服装のチェックをしていました。思い起こせばあれも嫌な仕事でした。

 小学校では、運動会になると、女の子はブルマーと地下足袋が正装でした。このちょうちんブルマーが、ランドセル同様、これまたお古ときていて、まだ身体の小さい小学校一年や二年のときにかつて六年生に使われていたというブルマーが回ってきたりしたら、もうその姿たるや、思い出しても噴飯ものです。加えて地下足袋。たしかに実用的ではありますが。

 ギャグ漫画はあんまり好みではありませんでしたが、土田よしこ氏の「わたしはしじみ」はよく読んでいました。ヒロインはブルマーに地下足袋姿でした。


 中学校に入ると給食はなくなり、お弁当も購買部で買うか自分で作るようになりました。

 定番は魚肉ソーセージ。切って炒めるだけだから手軽でした。

 中学時代はとにかく食べても食べてもお腹が空く、食欲旺盛な時期でした。

 学校から帰るなりすぐに食パンを一枚か二枚、たしかマヨネーズをかけて食べていたような気がします。このころにはパンの朝買いもなくなり、買い置きしていたのでしょう。

 あまりの空腹に手がふるえそうになりながら、一枚目の食パンで少しお腹がおさまると、今度は本を読みながらゆっくりと二枚目を食べていきます。

 至福の時間です。

 この時代、読んでいたのはハックルベリー・フィンや足長おじさんのような定番の児童小説、それにドリトル先生や小公子、小公女などまだ繰り返し読んでいたかもしれません。

 マーク・トウェインやジーン・ウェブスターは子供用の本ではなく文庫本で読んでいましたが、これは大人になっても読みごたえがありました。ウェブスターのユーモアと現実的なセンスは新鮮でした。

 ある貧しい娘がパンを得る算段で心労を募らせている傍らで、その母親はなにもしようともせず、すべてただ神様の思し召しと、椅子に座って祈るだけ。そのような母親に対しては「あんな骨なしくらげなんか」と手厳しい。「あんな骨なしくらげなんかどうなろうと知ったことではないが、家族の苦労を一身に引き受けて疲弊つくしている若い娘を見ると痛ましくてたまらない」と、ジルーシャはおじ様に助けを求めるのです。自分が必要とするのはもっと戦闘的でかつユーモアを解する神様だと宣言するジルーシャ。ウェブスターは、孤児院をはじめとして実際に社会の改革派だったのでしょう。

 トム・ソーヤーと黒人ジムとの頓珍漢な会話も面白い。

 すべて理詰めで説明するトム・ソーヤーに対し、奴隷として生きてきた実際の経験から物事を割り出すジム。そのジムに加担するのがハックルベリー・フィン。「いやあ、トムさん、やられたねえ」、トムはぷりぷりし、ジムとフィンは大笑いします。子供のころはジムやフィンのあまりの無知、無教養に対し、読んでいて、トムと同じようにイライラしていたものですが、年をとって、あれはマーク・トウェインの痛烈な皮肉であったことに気が付きました。


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 明治四十五年生まれの父は日中戦争で負傷し、切断こそかろうじて免れたものの、左足は骨がむき出しなるような傷を負って帰国しました。膝はまったく曲がらず見た感じもまるで義足をはめているようなものでした。母はそのとき私の叔母にあたる妹と一緒に広島まで迎えに行ったといいます。私は生まれたときからそういう父の姿を見ていたから当たり前だと思っており、父の膝に抱かれながら同時に失った父の薬指の痕跡をよくいじっていたものです。

 父から戦争の話を聞いたことはほとんどなかったと思います。考えてみれば父が生還できたのは負傷したからでしょう。負傷しながらも帰ってこれたからこそ私も生まれたのです。

 ひょっとすれば父は生還したことに負い目を感じていたのかもしれません。出征以前に勤めていた郵便局に復帰しようと思えばできたであろうはずなのに、その機会を辞退したのはそのこととも関係があるのかもしれません。ただ、家族からしてみれば、いささか怨みたくなるところもあります。

 というのも、父はその後なかなか定職につけず、経済的な面では母もかなり苦労したからです。

 幼いころ、これはべつにうちだけというわけではありませんが、どこの家でもよく内職をしていました。あの頃は内職仕事もふんだんにあったようで、私は母が新しい内職の仕事をもって帰ると興奮しました。

「はい、これならやってもいいよ」段ボール箱に折り目をつける内職は私にもやらせてもらえました。

 クリスマスの季節になると金モールの飾りを細工する内職が入り、私は触りたくてうずうずしていましたが、母は「これはだめ」と絶対許しませんでした。しかしキラキラした飾りは見るだけで楽しかった。母は他にも編み機を使って人に頼まれたセーターなどを作っていました。

 その間、父も様々な仕事に取り組んでいましたが、どれもうまくいかず、ようやく1960年代に入ってから母の親戚の知り合いの伝手で服地の仕入れ先とつながりをもつことができました。そして当初は風呂敷で仕入れていた服地の販売が幸いにも景気の波に乗り、借家ながらもなんとか店を構えるまでに至ったのです。

 店をもつにあたっては銀行から資金を借り入れたようです。今はもう名前も残っていないかもしれませんが、福徳相互銀行です。

「まあ、それにしてもよくうちのようなちっぽけな店に貸してくれたもんだ」母はしみじみ言っていたことがあります。

 銀行員は毎月返済金をとりにやってきました。最後の返済金を支払ったとき、銀行員は深々とお辞儀をし、母もまたあらたまったお辞儀を返していました。長いこと私はこの銀行員の人が何故しばしばうちを訪ねてくるのか理解できていなかったようです。

 「おかあちゃん、フクトクが来た」と私が告げると、ふだんはいつもフクトクと呼び捨てにしているのに「なんです、福徳さん、でしょ」とたしなめました。


 これは銀行からお金を借りる前のことだったでしょう。当時はまだ「頼母子講」というものが機能していました。頼母子講というのは一説によると鎌倉時代から始まっていた相互扶助の無尽で、当時ひょっとしたらすでに違法となっていたか、あるいは違法すれすれだったか、よくわかりません。母がせわし気な声で「今日はたのもし、たのもし」と騒いでいたことを覚えています。頼母子講は持ち回りで集まる家が決まっていたようで、その日ははじめて我が家に参加者が集まる日でした。

「お茶、お茶、えーと茶菓子は」という母を遮ってリーダー格らしき年配の人が「えー、もう茶なんぞいらん、座布団もいらん」と叫んでいます。「えーっ! 座布団もいらないって?」といぶかる母にその男の人は立ったままてきぱきと采配をふるっていきます。パタパタっと話がまとまり、五分もたたぬうちに、「はい、じゃ、今回はそういうことで」と、集まった人々はさっーと引き揚げていきました。「あ、そう」と母はいくぶん間の抜けた表情で去っていく人々を見送っていましたが、そのうちには母も要領を飲み込みんでいったようです。

 資金を受け取るときは「頼母子を落とした」と言っていたように思いますが、なにぶん子供のことで、そもそも何をしていたかもわかっていなかったから定かではありません。ただ、人々が一斉に集まる、短いその一瞬に、ある種の緊張が走っていたのは感じておりました。その緊張にはギャンブル的要素もあったのでしょう。後の相互銀行というのは頼母子講から引き継がれるものもあったかもしれません。


 「はぎれや」として始めた仕事が「服地販売業」として軌道に乗る前から、父は養鶏をはじめ様々な仕事に手を出していましたが、その合間に今でいうボランティアのようなこともよくやっておりました。夏には夜になると近所の子供たちを集め「ガリバー旅行記」など、図書館から借りてきた幻燈を、「きょうは幻燈会」と称して見せたりしていたものです。

 また、学校で映画の自主上映などもやっていました。題名だけ鮮明に覚えているのは「裸で狼の群れの中に」。暗い映画でした。意味なんかちっともわかりませんでした。

 当時は映画が大きな娯楽産業であり、映画館は三本立てが当たり前の時代でした。

 日本映画では「にあんちゃん」「路傍の石」「キクとイサム」など、社会派と言われる映画が全盛期で、父は五味川純平の「人間の条件」にかなり心を動かされていたようです。

 しかし、子供にとってこのような映画は苦痛でしかありません。私は父に連れられて様々な映画を見ているうちに「映画とはしんどいものだ」と学習してしまったのでした。

 当時、映画で唯一楽しいと思えたものは「狸御殿」ぐらいでしょうか。ディズニーですら、あの「ダンボ」で恐怖を味わいました。あの巨大な耳で飛ぶ立つダンボの恐ろしさ。私は母の膝にしがみついて目をふさぎ耳を抑えていました。少ないながら私以外にも泣いている子供がいましたからあの映画には何か恐怖を喚起させるものがあったに違いありません。

 恐ろしいといえば、女の人の死体が逆さまになってにゅうっと出てくる映画も怖かった。はては大きな猿まで暴れまわったりして、幼い私の頭はもうぐっちゃぐちゃ、いったいなんちゅう映画かと思いますが、あれはどうやら「モルグ街の殺人」だったようです。原作はアラン・ポーだといいますが、猿の部分はシャーロック・ホームズの「這う人」がモデルだったのではないかと思っています。

 短期間ですが、母が近くの映画館で「もぎり」の仕事をしていたことがあります。訪ねていくと、「はい、ここからそうっと入りなさい」と中に入れてくれました。やっていたのはフランキー堺の「私は貝になりたい」。またしてもしんどい映画でした。

 ずっとこの映画は実話だと信じていましたが、つい最近、ネットでこれはじつは実話に基づいた創作であったということを知りました。数ある「そうだったのか」の中のひとつです。


 そういうわけで、映画は私の娯楽にはなりませんでしたが、漫画は大好きでした。貸本屋にはひんぱんに通ったものです。定番は手塚治虫。「鉄腕アトム」、「ロック冒険記」、「黄金のトランク」、「リボンの騎士」。上田とし子の「フイチンさん」「ぼんこちゃん」、うしおそうじの「朱房の小天狗」「おセンチ小町」。横山光輝は「おてんば天使」などの少女ものしか読みませんでした。鉄人28号は私にはちっとも面白くなかった。

 その貸本屋には毎日のように通っていたのですが、小学校の半ばころ、ある日、その日の本を物色しているところを同級生に見られ、「いやあ、漫画なんかみてやるう」と皮肉られ、いたく自尊心を傷つけられてしまいました。なにしろいつもクラスの委員長をやらされていたので、自他ともに優等生であると思い込んでいたのです。優等生にとって漫画は禁断の書。対面をつくろうべく、私は漫画以外の本にも手を出すようになりました。

 「若草物語」や「昔気質の一少女」、「八人の従兄弟」などオールコットの少女小説はほとんど読んだと思います。漫画と手を切るのはつらかったのですが、少女小説も読みだすと面白くなっていきました。「少女パレアナ」、これはのちに心理学でポリアンナ症候群といわれるようになりましたが、翻訳ではパレアナとされていました。それから「二人のロッテ」、「アルプスの少女」、「赤毛のアン」、「リンバロストの乙女」、「リトル・ドリット」など次から次へと手が出ました。ディケンズの「リトル・ドリット」は子供向けの挿絵入りで、これも繰り返し読んではいたものの、背景はまるで理解していなかったようです。後に英語で読んだ時、初めてDebtors' Prisonという言葉を知り、その特殊な背景がわかりました。

 菊池寛の「青の洞門」も貸本屋で借りて読みました。「恩讐の彼方に」という題名はずっと後になって知ったから、これも子供向けに書き直されたものだったのでしょう。

 巌窟王、三銃士、鉄仮面、紅はこべ、アルセーヌ・ルパン。宝島、ロビンソンクルーソー。手近にある有名な子供向けの翻訳小説はほぼ読みました。ルパンは子供のころはよかったのですが、大人になると読むに耐えず、シャーロッキアンに転向しました。


 少女漫画や少女小説の影響か、もうこのころには、金持ちというのは不幸で寂しいものだという定義がしっかりと身体に染み込み、その根拠なき確信はその後もますます強固になっていきました。

 日本の児童小説も、べつに選んで読んでいたわけではないのですが、図書館にあったのは貧しさに耐える少女、少年の話が多く、栄養失調で鳥目になったお母さんに食べさせようとイナゴやタニシを捉えようとする子供の話など胸につまされました。

 作者もわからずストーリーもうろ覚えなのですが、イナゴやタニシが食糧になるというのは新しい発見であり、さらにまた「貧乏というのは二日後の米の都合がつかないときに初めて貧乏というのだ」という定義もしっかり心に刻みこまれました。後には、それはいくらなんでもあまりに低水準では、と思い至った定義ではありますが、そう思っていたほうが生きやすいので、あえて再定義はしないことにしました。

 宮沢賢治は苦手でした。子供のときは、宮沢賢治のことを、まことに無礼にも、ヘンタイではないかとひそかに思っておりました。のちに潮出版から出た宮沢賢治の童話館で、様々な漫画家が描く宮沢賢治の解釈を知って見直すようになりましたが、あれがなければ今でもそう思い込んでいたかもしれません。


 ふりかえってみて、一番幼いころの本の記憶は父が朗読してくれた巌谷小波の「こがね丸」でしょう。

「むかし、ある深山の奥に、一匹の虎住みけり。」で始まる忠犬の物語を父は口語に翻訳して毎夜少しずつ読んでくれました。父自身も声に出して読むのが好きだったのでしょう。ある日、「さてはわが亡親(なきおや)の魂魄(たま)、仮に此処(ここ)に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那(あな)感謝(かたじけな)し…」と、文語体のまま朗々と続きを読み始め、私は猛烈に抗議しました。「そんなん、わからへん」。

父は渋々もとに戻して読んでくれました。

 この話は改造社版の少年文学集にあったもので、この文学集には若松賤子翻訳の「小公子」も入っており、のちには「こがね丸」同様、こちらの古風な文体も自ら楽しむようになりました。

「セドリックには誰も云うて聞かせる人が有りませんかったから、何もしらないでゐたのでした。おとッさんはイギリス人だったと云うこと丈はおッかさんに聞いて、知ってゐましたが、おとッさんが、おかくれになったのは、極く小さいうちの事でしたから、よく記憶えて居ませんで、ただ大きな人で、眼が浅黄色で、頬髭が長くッて、時々肩に乗せて、座敷中を連れ廻られたことの面白さ丈しか、瞭然とは、記憶えてゐませんかッた。」

 またこの全集には北原白秋の童謡、小川未明の「牛女」「金の輪」、宇野浩二「蕗の下の神様」、秋田雨雀「老僧と三人の弟子」「三人の百姓」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」そして鈴木三重吉の「古事記物語」など、考えてみれば私の初期の基本的読書体験はここから出発しているのかもしれません。


 そもそも母が本好きでした。それで、店の商売が順調になったころから尼崎市の巡回図書館の当番を引き受けることになりました。ひと月に一度バスで回ってくる巡回図書館からまとめて借りて近所の人たちもそこから借りられるようにするシステムです。曲がりなりにも店を構えていたので、普通の家と違い、一般の人も入りやすかったのでしょう。「あのう、本を見せていただけますか」と誰かが入ってくると、客に対しては時には不機嫌な対応をすることもあった母が、「ああ、どうぞ、どうぞ、どうぞこちらに」と甲高い声で愛想よく案内していました。

 十年もたつと借りに来る人はまばらになりましたが、うちの家族だけでもけっこうな量は読んでいたはずです。

 私が読んでいたのは主にミステリーで、E.S.ガードナーや、アガサ・クリスティなどハヤカワミステリには片っ端から目を通しました。ペリー・メースンは、出だしは派手なのに、読み終わるときれいさっぱり忘れるので、何度でも楽しめました。

 石川淳の「鷹」、阿部公房「方船さくら丸」などもこの図書館で読みました。ソルジェニーツィンの「イワン・デニソビッチの一日」もこれで読みました。「オットーと呼ばれる日本人」では、いったいこの人たちは何をしようとしているのか、さっぱり理解できませんでした。

 「水上さんの本はいつも暗いねえ」と、言いながらも母は水上勉の本をよく借りていました。あと円地文子、瀬戸内晴美などもあったので、私も高校に入ってからそのような女流作家の作品にもある程度目は通してはいたものの、「女の業」とかいう話になるとまるでついていけません。

 伊藤野枝の生涯を描いた「美は乱調にあり」も、よく知られるその無残な殺され方には憤りを感じるものの、いったいこの人たちが何をどうしようとしているのか、どうもかれらの道理がよく頭に入らない。

 ごく最近、瀬戸内寂聴となってからの作品で、北原白秋の妻を描いた「彼岸すぎて」を読んで、初めて、ああ、この人は本当に力量のある作家だったのだと少し安心したような気分になりました。


 中学、高校時代はこの私設図書館以外に、いわゆる古典の文学全集も片っ端から読み始めるようになりました。少女小説や漫画はまだ隠れてこっそり読むものであったので、知的虚栄心とでもいいましょうか、大っぴらに読むものも必要だったのです。

 トルストイにはさして感銘を受けませんでしたが、ドストエフスキーは好きでした。人間描写が面白い。

「白痴」の中にほんの少し出てくる人物で「将軍」と呼ばれる老人がいる。本物の将軍ではなくからかい半分にそう呼ばれているだけだが、この人物のいうことがいつもまるで出鱈目で、といってもそれはたいして罪もない嘘なので人々はそれを知りつつ受け入れていた。ある日、ムイシュキンをひそかに慕う令嬢だったと思うが、この将軍とたまたま出会ったとき、将軍はさっそく、

「ああ、わしはお前さんのことをよく覚えているよ。小さいとき公園で出会って、それから」とやり始めたものだから、周りの人々は「またまたあ、そんなことあるはずないでしょうが」と諫め始めた。

 すると意外にも令嬢は「ええ、覚えているわ」とはっきり答え、そのときの状況を詳しく説明するではないか。それを聞いて将軍はみなが驚くほど感激し、ついには涙まで流し始めたのである。それを見てまわりの人間も目を見張った。

「驚いたねえ。人間、話していることがたまに本当だったりすると、こうも感激するものか」


 そしてカラマーゾフの対極にあるゴンチャロフの「オブローモフ」も気に入りました。後ろの解説には「この本はじつに退屈な本である。なにしろ主人公がほとんど何もしないのだから」とあったのですが、私は繰り返し読めました。

 フランス文学はスタンダールはどうも合わず、バルザックの「ゴリオ爺さん」や「従妹ベット」などよく読んでいました。

 ドイツ文学ではトーマス・マンの「魔の山」にも手を出しましたが理解およばず、何度チャレンジしても、主人公が肺病を病む従兄弟を見舞ったところが自身が肺病と診断され自らもまたサナトリウムに逗留することになった、ところまでしか行きつかない。主人公である新入りの患者が毛布の扱い方を教えてもらう箇所が妙に頭に残りました。

 どの小説でもそういった所帯じみた動作がいつも頭に残ります。サモワールで入れる紅茶、そのお茶を受け皿に移し替えて飲むところ。紅茶とマドレーヌから始まる回想。


 「チボー家の人々」では、最後のところで、ジャックの恋人であったジェンニーが子供との生活に落ち着き、ひょっとして今ジャックが戻ってきたとしても自分はもうジャックを受け入れられないかもしれない、とふと思うシーンがあり、思わず「それはない!」と内心叫んでしまいました。あれだけ愛し合った二人なのに「いないことに慣れた」なんてそれはないでしょ、と思い切り感情移入していた私には納得いかなかったのです。けれど、年をとった今、さもあろうと同感できるようになりました。


 中学時代だったか、授業ではないけれど、読書感想文を書くようにということで与えられた本がヘルマン・ヘッセの「車輪の下」でした。いまあらためてストーリーを調べて、この本の舞台となった学校というのは神学校だった、ということに気が付きました。そんなこともわかっていなかったのに、いったいどんな感想文を書いたのやら、きっとひどいものだったに違いありません。

 のちにバックパッカーとしてヨーロッパ旅行をしていたとき、ドイツ人の女の子と知り合い、そのボーイフレンドを紹介されました。サロというその彼はオーストリア人で、たまたまヘルマン・ヘッセの話になったとき、「僕の学校では彼の本は禁書になっていた」というので驚きました。こっちは学校から薦められたのに、オーストリアでは過激すぎるというので読むのを制限されていたというのだから、わからないものです。

 ちなみにこの人は、お父さんがナチの支持者で、お祖父さんが反ナチだったと、さらりと言うので、それにも驚かされました。


 文豪に疲れたときには関敬吾の昔話を読んでいました。毎晩毎晩、繰り返し繰り返し、寝る前に読みました。ああ、昔話とは採集するものかと初めて知りました。 

 関敬吾の昔話は、文体も小気味よいほど簡潔です。

「ある金持ちの男の女房が死んだ。

 男は一日目にオイオイ泣いて、

 二日目にちょっぴり泣いて、

 三日目に新しい嫁さんをもらった。」


 木下順二の昔話も読みましたが、こちらはどうもかたくるしくて、あんまり入り込めませんでした。

 家には日本の古典全集もありました。平家物語、大鏡、増鏡などはまだよく理解できなかったものの、今昔物語は繰り返し読めました。「三年寝太郎」の話がとくに好きでした。もうそのころから寝て暮らす生活に憧れていたようです。


 初めて電話を使ったのは1960年前後、小学校の中頃だった気がします。電話のかけ方を教えてやる、と、父が私を駄菓子屋さんにあった公衆電話に私を連れていきました。かける相手は母の妹の夫である親戚のおじさんです。このおじさんも母の姉の夫もどちらも郵便局に勤めていました。父も出征前は郵便局に勤めており、義理の叔父同士がもともと友人関係だったようです。

 連れていかれるとき私はかなり抵抗していました。電話に対する気おくれもありましたが、自分がなぜこのおじさんに電話しなければならないのか、それがわからない。おそらく、親戚の中で初めて電話を家に取り付けたのがそのおじさんだったのでしょう。その電話番号を知らせる通知を見て父が掛けようと思い、ついでに私にも教えておこうと思いついたに違いありません。

 はじめての黒電話を手にとって、おそるおそるダイヤルを回すと、つながって、おじさんが出てきました。もしもし、という言葉さえ思いつかず、なんと言っていいかわからない。無言の私に対しておじさんは、「もしもし、どちらさん? もしもし」と叫び続けている。後ろで父が「まず、自分の名前を言いなさい」とせっつくので「まやです」ぐらいは言ったのでしょう。「えーっ、あー、そうか、まやちゃんか」とおじさんはやっと安心したものの、今度は「何かあったんか」と不安そうに問われ、また返事ができない。ついに父が代わって、じつはこれこれしかじかでと説明してくれました。

 こんなふうだったので、初めての電話はあんまりいい思い出にはなりませんでした。

 我が家に電話が来たのはそれからしばらくしてのことで、時期は世間並みだったと思います。たしか429-5989という、どことなく苦しそうな番号でした。


 我が家にテレビが来たのはいつだったか。皇太子様ご成婚のパレードは白黒で見たと思うからそのころにはあったのでしょう。

 1963年のケネディ暗殺のニュースはよく覚えています。アメリカでは「そのときあなたはどこで」とこの事件で受けた人々のショックについてしばしば特集を組んでいるようですが、日本でも初めての日米同時中継がそのショッキングなニュースで始まりました。

「おい!、ケネディが殺された!」寝転んでいた父はがばっと起き直り、母に大声で呼びかけると、

「えーっ!」母もすぐにテレビの前に駆け寄り、二人してじっと画面に見入っていました。

「いやあ、いったいこの先、世の中どうなるか」母は首をふりながらつぶやくと、また台所に戻っていきました。

 このとき、じつは父と母はどういうわけか数日前から冷戦状態に入っており、お互いろくに口もきかない状態だったのですが、これをきっかけにもとどおりふつうに会話するようになったから、世界平和はともかく、ケネディさんは我が家の平和にはささやかな貢献をしてくださったことになります。


 テレビはまだ放送時間が限られていました。学校から帰ってくるとちょうど洋画が始まる時間で、映画好きではなかったものの、見るともなしに見てしまったものの中で覚えているのがフランス映画の「美女と野獣」、それから「洪水の前」です。「洪水の前」は、ネットであらすじをチェックしてみると、まったく自分の記憶と異なっています。しかし、いつもこの時間のテレビはちらっと見てすぐに読書に入るのに、この映画だけはなぜか最後まで見てしまい、題名も後々まではっきりと記憶に残りました。ストーリーをまるで覚えていないのだから見たとも言えないのですが、なぜかその中の人物のセリフに深々と聞き入っていたことだけは憶えています。

 学校から帰って、見るともなしにテレビを見てしまったのは、おそらく父が見ていたからでしょう。この時代、父は家にいることが多くなりました。店はほとんど母にまかせていたから、父は所在ない思いをしていたのでしょう。ある日、テレビで軍歌が流れてきたことがあります。あまり聞き慣れない軍歌です。それを聞くと、父は突然立ち上がり、腕を振りながら一緒に歌い始めたのです。私は驚愕しました。父と軍歌とはあまりにも似つかわしくないものだったからです。

 今思い返すと、あれは父の身体に染み込んだあの時代が抑えきれずに迸り出てきたのではないかと思います。父の軍歌を聞くことは二度とありませんでした。



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 世の中が好況になるにつれ、人々の舌も超えてきました。立花駅北口を降りると左手にヒロタのシュークリーム店と、たしか三笠を売っていた和菓子店もあったように思います。シュークリームや三笠はどちらかというと我が家に来るお客さんが手土産に買ってくることが多く、家にお客が来ると母は私を使いにやって市場の旭堂まで生菓子を買いにやらせていました。買うときはもちろん家族の分も買うから、お客さんが来るとお饅頭が食べられると喜んだものです。もうそのころになると、お正月はお隣の家と一緒にやっていた餅つきもとっくにやめて、この旭堂で「のし餅」や「丸餅」を注文するようになっていました。

 1960年代中頃ぐらいに、「あの店のケーキ、すごく美味しいらしいよ」と評判のたつ店が商店街に現れました。エーデルワイスという店でした。旦那さんがケーキを焼いて、べっぴんさんの奥さんが売っている、味はとにかく今までのお菓子とはまったく違う、本格的だ、と、評判は瞬く間に広まりました。

 うちの店は母とおしゃべりをするために来る人も多かったので、うちでも早速聞きつけて買い始めました。この味は、時代がある一線を超えたことを象徴するものだったかもしれません。


 本は相変わらずよく読んでいましたが、高校になると勉強の成績も芳しくなくなり、高校卒業後、いちおう大学受験を試みたものの失敗。本音では学校と名のつくところにはもう行きたくもありませんでした。

 並みの就職活動には少し出遅れましたが、好況の波が押し寄せてきた時代だから就職先には不自由しませんでした。ただ、やはり世間並みの家庭で育っていなかったせいか、会社選びの基準がまるでわかっていませんでした。何の考えもないまま、最初に目にした新聞の求人広告に応じたところ学校からも推薦され、中ノ島にある大手の生命保険会社に就職することになりました。

 労働条件には文句のつけどころがありませんでした。仕事が退屈だということを除いては。

 初任給は二万四千円だったと思います。初めてボーナスをもらったときは「えーっ、こんなにもらえるの」と、母が驚いていました。

 給料は入るようになりましたが、物欲はあまる強くないほうです。子供のころ親戚からもらったお年玉などどう使ってよいかわからず、財布に貯めていたのを母が見つけ、「まあ、この子はこんなにお金を。これは預かっといてあげる」と言われたまま、まるで返してくれる気配はありませんでしたが、文句も言いませんでした。

 給料をもらうようになってからも「貯金しておいてあげる」という母の言葉で給料の半分は渡していました。これはさすがに私の名前で通帳を作ってくれていたから、母が亡くなったときには返してもらいましたが。


 私が高校時代のころだったか、我が家の二軒隣に梶本さんというお宅がありました。なんでも音楽事務所に関わる仕事をされていたようで、母は一、二度、辻久子さんのヴァイオリンコンサートのチケットを頂いて大感激していました。さらにまた、あれはボリショイバレエ団だったか、「白鳥の湖」のチケットを頂いたときなどはもう文字通り舞い上がっておりました。

 私のチケットはありませんでした。「あんたはこれからまだいつでも行けるでしょ」というのが母の言い分で、私もさして不満はありませんでした。実際、会場のフェスティバルホールは後に私が勤務することになる会社の隣ということもあり、行こうと思えばいつでも行けたのですが、私はコンサートはさておいて、フェスティバルホールの地下にあるレストラン「石狩」で時折「石狩弁当」を自分に奢る程度で満足しておりました。塩鮭を焼いて扇のようにきれいに広げ、隅っこに皮を少々、それと鮭のお吸い物が付いたお弁当は、少々値は張るものの、給料日の贅沢としては手頃でした。


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 父は釣りの好きな人でした。子供のころから自転車に乗せられて武庫川や芦屋の浜に連れていかれたものです。足は悪かったのですが、父はもともと水泳が得意だったので芦屋の浜で海水浴をしたこともあります。

 父につかまって泳いでいるとき、父は良いほうの足で何かをつかみ、「お、あさりがおるぞ!」と叫びました。私のほうは父につかまるのが精いっぱいで、あさりどころではありません。しかし、父は夢中になってあさりをとり続けていました。いつも冷静な父でしたから、子供のように夢中になるその姿を見て私は少々面食らいました。


 商売が軌道に乗ってくると、父は仕入れを済ませたあとはすべて母に任せていました。で、時間ができると遠くのほうまで釣りに行くようになっていました。

 ある日、瀬戸内海の家島に海釣りに行ったとき、父は地元の松浦氏という漁師さんと出会いました。この方は海の汚染を懸念し、地元の石油会社か洗剤会社に対し公害訴訟を起こしていた、あるいは起こそうとしていたところで、これをきっかけに父は松浦氏を手伝い公害問題に深く関わるようになっていきました。

 ひとりで戦っていた松浦氏は、真剣に話を聞いてくれる人を初めてみつけたような気分だったのでしょう。親交が深まるにつれ、父がでかけるだけでなく、松浦氏のほうも父と話をするためにしばしば我が家を訪れるようになり、そのときは必ず、獲りたての穴子を大きなクーラーボックスに満載してもってきてくださいました。母は大喜びでしたが、まだ子供であった私はその味も有難みもよくわからず、その後何十年間にわたりお寿司のアナゴには一切手を出しませんでした。この時代にもう一生分のアナゴを食べたような気分になっていたからです。

 もともと父は近所でも何か問題事があるとよく人にものを頼まれておりました。どういう事情か知りませんが、学生らしき男の人が家に居候していたこともあったし、学校の授業についていけない近所の子供の勉強を見ていたこともあります。

 後年、英語でストリート・ロイヤーという言葉を知って、ああ、これは父のことかもしれない、と思ったものです。往々にして、こういうタイプの人間は、人の面倒はみても自分の面倒はみきれないところがあるようです。


 それはともかく、公害問題はその深刻さを増しつつありました。尼崎はとくにひどいと言われました。二駅先の神崎川など、電車で橋を渡るときでさえ汚臭がしたぐらいです。あの川で身投げした人があると聞いたときには、よくよく差し迫っておられたのであろうといたく同情いたしました。

 家庭で食器洗剤が使われるようになったのも同じような時期だったでしょう。その洗剤で野菜も果物も洗っていました。夏の定番のおやつの葡萄など、母にまかせると洗剤でちゃんと洗わないから、気持ち悪くて食べられませんでした。いま思うとまさに隔世の感があります。

 幸いにも皮膚が頑丈だったのか、あれだけどぼどぼと洗剤を使っていても私自身はなんの異変も感じませんでしたが、手荒れに悩まされる人々の話はぼつぼつ耳にしだしました。


 父は化学の本を買い込みひとりでもいろいろ調べていたようですが、公害問題への関わりとともに社会党の人々とのつながりも深めつつありました。とはいえ高校生ぐらいになると私は父とほとんどまともな会話をすることもなくなり、父が社会党員であったかどうかもいまだに知らないぐらいです。

 ただ、ささやかなりとはいえストリート・ロイヤーなりに少しは地域への影響力もあると思われたせいか、家には時折政治家の人たちが訪れるようになっていました。土井たか子氏も来られ、堀昌雄氏も来られました。

 堀氏が来られたとき、それはもちろん選挙協力のためだったと思いますが、父は「ほう、選挙に? で、市会ですか、県会ですか」と問うたところが、「いや、衆議院です。」と言われ、一瞬絶句した、と、これはのちのち我が家の笑い話のひとつとなりました。ことほどさように父は政治の内情にはうとい人だったのです。


 父は一度自らも市会議員に無所属で立候補したことがあります。まだ商店街の間借りの店で商売していたころで、店がたちまち選挙事務所になりました。

 選挙はお祭りのようでした。人々が入れ替わり立ち代わり事務所に出入りし、誰もかれもが興奮していました。私もたしか選挙カーに乗せてもらったように思います。

 わけのわからぬまま私も興奮し、喉がからからに渇いて、ふと目についたのが事務所の隅に置いてあったアルミやかんでした。湯飲みが見当たらないものだから、行儀悪くそのやかんの口から直接ごくごく飲んだところが、「あーっ、だめ、それは酒や!」と誰かが叫ぶのが聞こえました。しかし、もう遅い、すでにたっぷり飲んでしまったあとです。

 母が心配そうに、「あんた、大丈夫?」と私の顔を覗き込みましたが、なーんてことはなかったです。


 父はまったく酒を受け付けない人でした。うちはお正月はいつも赤玉ポートワインをお屠蘇にして飲んでいたのですが、毎年父はそれをぐい飲みグラスで半分ほど飲んだだけであとはすぐにいびきをかいて寝てしまうのです。誇張ではなく、じっさい奈良漬けを食べただけで顔が赤くなったこともあります。

 私はというと、小学生だというのにポートワインならグラス一杯ぐらいへっちゃらでした。長風呂と酒飲みの血筋だけは父から受け継いだものでないことは確かなようです。

 あれだけ大騒ぎして大勢の人たちが集まっていたのに、選挙結果はひどいものでした。二百票あるいは三百票も、いったか、いかないか。以来、父が選挙に出ることはありませんでした。


 父は1975年、まだ六十代前半だというのに胃がんで亡くなりました。一生浪人暮らしで、お金にはとことん縁がなく、それはもうさっぱりときれいなものでした。

 お葬式には肺炎に罹られた市長の名代としてご子息が来られ、また遅れて土井たか子氏も来てくださいました。個人的に親しかったとは思えませんが、その程度の政治的しがらみはあったのでしょう。堀氏からも人づてにお香典をいただきました。額面五千円だったと思いますが、だいたいそれが当時の相場だったのでしょう。

 父は晩年尼崎市役所の嘱託になっていたようで、お葬式には職員の方々が手伝いに来てくださっていました。お香典を整理していたのはその方々で、そのお一人が堀氏のお香典を開いたとき、「ありゃ、金が入ってないぞ!」と叫びました。

 他の人々も一斉に覗き込み、「あーっ、ほんとだ」「ないよね、確かにないよね」と封筒を開いた方は律儀に何度も確認されました。あとでみな笑いながら「こりゃ、次の選挙に落ちるぞ」などと勝手なことを言っていましたが、なんと本当に落選という結果になってしまいました。

 ただ、むろん、それとこれとはまったく関係ありません。こんなことはご本人とはまるで関わりのない話で、私はそのとき、大した支援者でもないのにこの程度の付き合いでいちいち香典を出していれば、つもりつもってけっこうな額になるに違いない、ああ、政治家というのはこういうことでお金がかかるのかとつくづく思ったものです。


 こういうような家庭背景でしたから、我が家の新聞は当然ながら朝日新聞でした。

 私が朝日新聞以外の新聞を読むようになったのは、二十歳を過ぎて、立花駅の南側にある、知り合いの管理するアパートを借りて自活し始めたころです。前述のとおり高校が進学校だったゆえに流れにまかせ大学を受験しましたが、学力及ばず失敗し、ふと目にした募集に応じて大阪中ノ島にある大手生命保険の本社に入社していましたた。当時、女の子は自宅通勤が条件でしたから一人暮らしは規則違反だったかもしれません。就職にあたっては近所に興信所の聞き合わせがありましたが、その当時はまだ自宅にいましたから問題はありませんでした。

 近所の人は「聞き合わせがあったけど、まやちゃん、けっこん、おめでたなの?」と知らせに来てくれ、「まさか、まだ十八ですよ」と母が言うと、「ああ、じゃ、就職なのね」というぐらい、結婚、就職にあたっては身元調査が当たり前だったのです。ひょっとして今もそうなのかもしれませんが。


 一人暮らしを初めてからも新聞は購読しておりましたが、選挙の度にふと思うようになりました。

 自民党はいつも勝つ。けれど新聞の紙面はいつも自民党を批判する記事ばかり。しかし、選挙に勝っているということは、すなわち自民党を支持する多数派がいるわけで、その人たちの意見はいったいどういうものなのか、紙面からは一向にくみ取れません。

 少し背伸びしたかったということもありますが、私は週刊朝日、サンデー毎日をはじめとして、週刊新潮、週刊ポスト、週刊現代、プレーボーイなどの男性向け週刊誌なども読むようになっていきました。


 それから数十年、様々な職につき、住まいも大阪大正区の団地に移りました。おそらくこのあたりだったと思いますが、ある週刊誌の記事の中で、初めて北朝鮮の拉致事件のことを目にしたのです。

 

「近頃、柏崎の海岸で人がいなくなる、北朝鮮に拉致されたか」

 

 初めてそれを読んだ時の自分の印象をはっきりと覚えています。

「んな、ばかな。なんとまあ途方もないことを」

 これだから週刊誌は信用できないんだ、と、思ったぐらいです。

 私は長い間、この記事を読んだのは最初のアパートの部屋だったと思い込んでいました。意気がって読んでいた男性週刊誌とそのアパートが私の記憶でつながっていたのです。しかし、時期を調べるとそんなはずはありません。それは大阪の団地に移ってからのことでしょう。

 それはどうでもいいことなのですが、ただ、鮮明に自分の記憶にあるのは、「信じなかった」ということでした。

 その後も記事は続き、追いかけていたわけではありませんが、見るたびに気になるようにはなっていきました。自分の確信がどのあたりでぐらつきだしのかよく覚えていません。ただ、横田めぐみさんのご両親が登場されたころにはすでにそれはまぎれもない事実だと思っていました。むろん決定的だったのは蓮池さんたちが帰還されたことですが。


 拉致事件について土井たか子氏はずっと否定し続けていたそうです。これを知ったときはショックでした。私は社会党が解党するずっと前から政治には一切の関心を失い、当時新聞の購読も打ち切って、たまに図書館でまとめて読んでいました。また、テレビは二十歳で自活して以来持っていなかったため、めったに見る機会もありませんでした。そういうわけで社会党の凋落も風のたより程度の知識しかなく、かなり時勢に遅れていたことは間違いありません。

 それにしても、少ないながら私の知る地域の社会党員の人たちを思い浮かべても、社会党と中国あるいは北朝鮮との結びつきというのが、どうしても理解できないのです。そもそもあの人たちに国際的な政治感覚が本当にあったのでしょうか。そんなことを考えもせず、イデオロギーなど考えもせず、地域のために働いていた人々は確かにいたと私は信じています。公害はあの当時まさに切実な問題だったのです。あの神崎川に魚が戻ってくるようになるまでにどれほどの道のりを経たことか。


 よど号ハイジャック事件は1970年。私はすでに二十歳。もちろん驚きました。事件自体にも驚きましたが、テロリストたちが平壌に行ったというのが理解不能でした。ピョンヤン! なんでまたそんなところに?

 そして、私は、以来ずっと犯人たちが平壌に行ったことを後悔しており、望郷の思いに駆られているに違いない、と思い込んでいました。しかし、どことどこが、どうつながっているのか、なにか知らない糸が紡がれていたようです。

 その後、あさま山荘事件、赤軍派リンチ事件が続きます。すでにテレビのない生活に入っていたせいか、あさま山荘事件についてはさほど鮮明な記憶はありませんが、リンチのほうは耳にするだけでもショックでした。まさに「悪霊」にとりつかれたとしか思えません。大学に縁がなかったせいもあるでしょうが、私自身は学生運動については、とくに過激な学生運動に対してはいかなるシンパシーももてませんでした。それは大部分の人がそうであったと思います。


 さて、一人暮らしを始めてから私はまた漫画を読むようになりました。まずCOMを買い始めます。ガロは私の趣味ではなかったですね。全般に漫画がメジャーになりつつある時期に入っていたのでしょう。よもやそんな時代が来るとは思いもよりませんでしたが、もはや隠れ読みする必要もなくなりました。そしてついに、なんとあの筑摩書房からも漫画全集が出され、本棚に置いても体裁が良くなりました。

 その全集の解説文を書いていたのが鶴見俊輔氏で、そこで初めてその名を知ったのです。漫画を読む人間なら話がわかる人に違いない。そして鶴見俊輔編集の「思想の科学」を読み、転向論に興味をもつようになりました。

 思想の科学は面白い記事もありましたが、次第に「何を言うてるのかわからん」ようになり、手にとることもなくなったまま長い年月が過ぎました。ちかごろ鶴見俊輔氏が亡くなり、あらためてその経歴を見ると、かくも自分と隔たりがあったのかと今さらながら驚かされました。ヤマギシズムなど私にとって対極にあるものです。

 漫画の解説でその名前を知ったことから、鶴見俊輔氏という人はもう少し柔軟なものの考え方をする人だと思っていたのですが、けっきょく、育ちのよいお坊ちゃまが少々ぐれたあげく、中途半端に下賤に通じたというだけのことだったのかもしれないと、今になればそんな気がしないでもありません。

 思想の科学の誌上だったか、鶴見俊輔氏と瀬戸内寂聴氏との対談があり、お二人が何度か自殺を考えていた時期があると語り、これはなかなか印象的でした。

「しかし、なかなか死ねないもんですねえ」

「死ねませんねえ」

 そういうお二人がそろって長生きされました。お二人とも世の中がどう変わろうが、かつての思想を堅持し続けたようです。


 鶴見俊輔氏の名前を知ったこのころ、まだ二十歳そこそこではありましたが、私の中ではソ連や北朝鮮の全体主義に対する恐怖や嫌悪感はしっかり根付いておりました。それはソルジェニーツィンやジョージ・オーウェルを読んだ影響も多少あったかもしれませんが、いずれにしろソ連をはじめ共産主義国に出版の自由がないということは、この時代でもすでに周知の事実だった、と思っています。そして私は共産主義から転向した人々に興味をもち、そのきっかけを与えてくれたのが鶴見俊輔氏だと思い込んでいました。

 ソルジェニーツィン以外にも、地下出版されたというソ連の作家たちの文集も目にしたことがあります。ネットでみると、地下出版はサミズダートという名称だそうです。私の記憶では何とかポールとかそんな名前であったように思うのですが、これはまったくの記憶違いかもしれません。その地下出版の作品はとくに政治的というわけでもなく、私はどんな体制下にあろうとロシア文学は健在だとの印象を得ました。

 このロシア文学への共感は、日本で発禁処分されたその時代の日本文学者へのシンパシーにもつながるのですが、皮肉なことにそういった文学者たちはソ連に傾倒しており、そのソ連で文学者が弾圧されているという事実をこの日本の文学者たちはどうとらえていたのか、じつに不可解です。

 私はジョージ・オーウェルの「動物農場」を、今でも共産主義の実態を見事に表現していると考えるし、その徹底的な不寛容さを批判しない日本共産党およびいくつかの野党については不信を持ち続け、それ自体が党の性質を表すものとみています。私が見たネットの記事がどの程度信頼できるものかどうかわかりませんが、鶴見俊輔氏はその共産党を支持されていたと記述されています。これは私にとっては土井たか子氏に次ぐショックでした。

 

 ついでにいうともうひとつのショックは本多勝一氏です。氏のカナダ・エスキモーをはじめとする探検記には魅了されました。それ以後の本もその文筆力に圧倒されました。しかし、山本七平氏との論争あたりから少し自分とのずれを感じ始めました。とはいえその時点ではまだ山本七平氏より本多勝一氏をかなり「ひいき目」に見ていたと思います。

 決定的に違うと感じたのは立花隆氏との紙面論争です。たしか月刊「潮」だったと思います。何度読み直しても立花隆氏の言い分のほうが自分には納得できたのです。「潮」という雑誌が創価学会系の雑誌だということは知っていましたから、私は立花隆氏がそちらに近い方だという誤った先入観をもってしまい、かなりバイアスをかけて読んだ、にも拘わらず、それでもなお立花氏の話のほうがすんなりと自分には受け入れられたのです。

 立花隆氏はインターネットの未来をかなり早い時期に予言していました。ウェブという言葉が使われだしたころ、立花氏はウェブの情報がどのように拡大していくか、そして将来はインターネットにないものは存在しない、というところまで行くかもしれないと予言しておられました。

 何よりも卓見だったのはサーチエンジンの重要さをすでに認識されていたことです。サーチエンジンという言葉がそのときすでにあったかどうか覚えていませんが、「ベッコアメ」という言葉をはじめて聞いたのも立花隆氏からです。凡人ゆえにその重要さを理解できず、ベッコアメはベッコウ飴だと思いふざけた名前だとしか当時は思えませんでした。

 これもインターネットが拡大しつつあった時期か、橋本治氏が、もはやこの世に「一流の作家」と「三流の作家」などという区別はなくなった、あるのはただ「一流の読者」か「三流の読者」だと指摘し、これも鋭いと思いました。そして今後は創作能力というより編集能力が問われる時代になる、と言ったのもこの橋本氏だったような気がします。

 数学者の森毅のエッセイが好きでよく読んでいましたが、先生によると思想でもテクノロジーでも何事も二十年もたてば使い物にならなくなる。同感です。

 また、名前を失念しましたが、ある歌舞伎俳優で、「伝統とは壊しながら守るもの」と言っていた人があり、これも至言であると思いました。

 

 一方で、「変わらない人」がいます。

 ぶれるという言葉がネガティブにとらえられるとすれば、「変わらないこと」はよいことなのでしょう。けれど、七十年もの間、変わらずにいた人が「革新」「リベラル」と称されるのはどうも合点がいきません。七十年も変わらなければ、それは「保守」でしょう。

 「変わらない人」と比べれば、私は大きく変わりました。そしていまも変わりつつあります。

 最初の大きな転換点はパソコンです。初めてのパソコンはNEC-98シリーズでした。ワープロは一太郎。プリンターを加え、一式で60万円という、今でも十分高額といえるものでした。物欲は強くない私ですが、パソコンだけは心から欲しいと思いました。

 活字といえば、私の場合、小学校のガリ版刷りからスタートしています。学級通信で一枚の原紙から一クラス50枚分の紙に刷るのは並大抵のことではなく、一枚で100枚も刷った人がいると聞いたときは、それだけで尊敬の念がわきました。

 それから現像液でべとべとになりながら苦戦していたリコーの青焼きの時代。これに対してゼロックスの登場は革命的でした。しかし、ゼロックスはまだまだコストが高く、組合時代の仕事だったビラ作りは依然として輪転機で印刷しなければなりませんでした。これがもうじつよく故障して泣かされたものです。

 しかし、その活字を素人でも自宅で印刷することができる。それがワープロでした。

 それまで人の原稿をもういやというほど清書してきましたが、自分で書いて自分で印刷する、そういったことが手の届く範囲にあると感じさせてくれたのが、富士通のオアシスでした。実物の機械も見ていないのに、私はオアシスのマニュアルを買ってうっとりしていました。

 そういう意味では最初の機械はワープロ専用機でもよかったのですが、ここで奮発してパソコンを買ったのは正解でした。もし、ここでワープロ機に限定していたら、後々インターネットへの移行もかなり遅れていたに違いありません。

 ローマ字入力の一太郎は、すでにブラインドタッチを習得していた私には非常に使いやすく、とくにバージョン3は完璧でした。けれど、バージョン4になって以来どうも使い勝手が悪くなったいきます。せっかく満足していたのに、なんで変えるのかと使うたびに不満がつのっていきました。

 ちょうどそのあたりから翻訳の仕事に携わるようになり、このバージョンアップのおかげでWORDへの切り替えも未練なく行えました。英語の場合、ワードのほうが勝手がよかったのです。もっとも、今となれば、ワープロソフトの違いなど、そうたいした問題ではなくなっているかもしれません。

 まだ翻訳の仕事を始める前、ワープロの一太郎を習得したときにこれで仕事ができないものかといろいろ模索してみました。

 あるとき近くの印刷会社の仕事を引き受けることになり、表の作成に携わりました。B4の用紙を横に使った大きな表で、四苦八苦した末、やっとぎりぎり印刷できる範囲におさめることができました。

 納品後、しばらくして修正が入ります。どうということのない簡単な文字の修正です。

 ささっと修正後、印刷してみたら、なんと5ミリほど端が切れています。わずか5ミリですがこれは致命的でした。もはや作り直す時間はありません。

 このとき、じつは直前に「一太郎」をアップデートしたところでした。

 てっきりプリンターの問題だと思い、エプソンに電話をして、一太郎のアップデート後に表がはみ出るようになったが、そういう問題はないか、と問い合わせてみました。

 電話に出たのは若い女性で、「いいえ、そういうことは聞いておりません。問題はありません」とそっけない返事。

 「テストされたのですか」と重ねて聞くと、「はい、テストでも問題はありません」とおっしゃる。そんなに簡単に答えられるものかと不信感がわきましたが、こちらも急いでいます。あきらめて、今度は徳島のジャストシステムに直接電話しました。エプソンに先に電話したのはエプソンは大阪圏内にあったからです。

 ジャストシステムのほうも応対に出たのは若い女性でしたが、こちらは表のサイズ、寸法まで丁寧に聞いてくれ、チェック後すぐに折り返しの返事をくれました。やはりバグであったようです。急ぐ旨を伝えると、翌日速達で新しいCDが届きました。こういう対応の仕方というのは会社に対する印象が格段に違ってきますね。

 もう使うことはなくなりましたが、このことでジャストシステムというのは今でもいい会社だと思っています。

 ワープロの仕事をフリーでするのはそう簡単ではなく、けっきょくはまた就職することになりました。輸出用の電気製品のマニュアルを作っている印刷会社で、ここで電算写植を学びました。数か国語のマニュアルに対応する仕事で、なかなか興味深いものでしたが、諸々の事情が重なり、数年で辞めることになりました。

 その後もトライアルを重ね、珍しく自ら売り込むことに成功しました。産業翻訳の仕事です。

 東京にあるその翻訳会社への仕事の納品に、パソコン通信は必須でした。

 初めて買ったモデムは当時発売されたばかりの1200ボー。初めてながら、買うときには初期の300ボーと比べれば格段に進歩しているに違いないと思い込んでおりました。

 買ったモデムの説明書に、「モデムを使う際にはNTTの許可が必要です」と書いてあるので、近くのNTTに出かけていったら、窓口の人に「モデムって、それ、何です?」と言われ、話になりません。それでも、あとでとやかく言われるといやなので、ハガキにモデムの機種と使用の旨を認め、ポストに放り込んでおきました。

 そんな時代だったのです。時代は進み、いや飛翔し、今頃モデムといっても別の次元の話になっています。

 生命保険会社を皮切りに最後のフリー翻訳者になるまで、いくつの職種に携わったか、自分でも数えきれません。ただ、どの職場でも私は非常にハードワーカーであったと思います。三年寝太郎にあこがれる反面、活動期にはとことん仕事に打ち込むたちなのです。 

 組合関係の仕事をしていたころ、まわりに共産党の人が多くいた時期がありましたが、私はとくに勧誘はされませんでした。たまに赤旗を購読してくれないかと言われたこともありますが、「読む気はないし、義理で購読するつもりはない」と、きっぱり断ると、それ以上の話はきませんでした。私のような人間は組織型ではないと思われたのかもしれません。

 また私の立場は微妙でした。組合で働く人はよく「専従」と呼ばれていましたが、私はたんに組合で雇われた従業員でした。生命保険会社から広告代理店、そして知人の誘いで商社の組合の上部団体に入ったのですが、こんな団体は誘われでもしなければまず縁がなかったでしょう。

 ここではたしかに普通では経験できないような事柄を目にしたし、眼を開かされた思いもないではなかったのですが、とどのつまり私には何の関係もない組織の中でそれぞれが対立し抗争しているのです。会社側の思惑ももちろん強力なものがあったと思いますが、仲間同士の対立もどんどん激化し、どちらを見てもその醜さにほとほと嫌気がさしてきました。

 労働組合が雇用者になるとどうなるか。役員は数年で代わっていきます。みんな自分が会社の従業員だと思っていますから、自分たちが誰かを雇用しているなどとは思ってもみない。みな自分たちの闘争のことしか頭にないのです。

 私のような経験をして、労働組合を母体とする政党など信じられるわけがないでしょう。

 そこで、組合の仕事を辞めたあと、まだ翻訳の仕事に就く前のことになりますが、貯金が底をつくまで本格的に勉強しようと思い立ち、二年間ほど図書館に通い続けることになります。

 その独学期間の最初はマルクスの資本論を読むことに費やしました。共産党を批判するなら、そのためにも「資本論」は読んでおかねばと思ったのです(馬鹿ですねえ)。

 結果は惨敗。まるで理解できませんでした。

 資本論を読んで「頭脳が明晰になった」という人がいて、その人は確かに非常に弁の立つ人だったので、その言葉に触発されて取り組んだのですが、ここまで理解できないとは思いませんでした。違う翻訳者で二回読んで二回ともまったく意味不明でした。唯一覚えているのは、二人の翻訳者のうち、片方は「亜麻布」といい、片方は「リンネル」と言っていたこと、それだけです。朝から晩まで一日じゅう図書館に座り込んで、ちんぷんかんぷん、ノートもとりましたが、何一つ頭に残らず、まことに無駄な半年でありました。

 マルクスはまるで無味乾燥でしたが、ふと手にしたマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は非常に面白いと思いました。そうそう、こういう観点に興味があったのだと、はっきりわかったのです。

 時間はたっぷりあるので、少しは歴史の知識も深めねばと、読み始めたのが家永三郎監修の日本文化史で、図書館にあったこの本は大判の書籍で写真も豊富だったので興味深く読めました。

 「世間虚仮唯仏是真」で始まる家永三郎氏の「日本思想史に於ける否定の論理の発達」も面白い視点だと思いました。

 家永三郎氏はもちろん教科書検定の訴訟で有名な方です。ネットの記述では評価は入り乱れているようですが、私自身は氏を誠実な方だったと思っています。ただ、しかし、現代史の検証については、その作業に実際どの程度の力をそそがれたのか、かなりの疑念が残ります。

 歴史家にとっては「悪かったと反省すること」が誠実さの証ではないでしょう。それよりも、事実を一次資料から読み解くことが誠実さではないか。そもそも、「良い、悪い」という観点をもつこと自体、検証を曇らせるような気がします。

 教科書検定そのものについては、どなたの見解か忘れましたが、反対意見で私が賛同したのは、「検定を廃止すれば、極端に右寄りの教科書もできるだろう。だが、それはそれでよいのではないか」というものです。

 それはまさに現代の教育に、皮肉にも双方の思惑とは反対の方向で、跳ね返っているようです。すなわち、

 「日の丸、君が代を敬うな」という教育が許されるのなら、

 「日の丸、君が代を敬え」という教育も許されるべきでしょう、それなのに、

かつての検定反対派は、「日の丸、君が代を敬え」という教育に対し、盲目的に拒絶しています。その絶対的不寛容さに今更ながら辟易してしまいます。

 振り返ってみれば小学校も中学校も卒業式にあたっては君が代を練習し、歌っていました。私が高校を卒業したのは1968年、あの安田講堂事件の年です。高校の卒業式の記憶がないところから考えると、私の高校ではとくに荒れなかったのだと思います。

 例の赤軍派リンチ事件はむろんごく一部の学生に限ったことだとは思いますが、私自身は学生運動そのものにどちらかというと冷ややかな目を向けていました。

 友人のボーイフレンドだった某国立大学の学生が部落問題研究会に入っていて、その人と議論したことがありました。部落問題などという言葉はそのとき生まれて初めて聞きました。

「部落っていったい何よ。そんなこと聞いたこともない。知らなければ差別のしようもないのだから、知らないままでいたほうがいい。なにもわざわざ問題を大きくする必要はない。」

と、キンキンまくしたてる私の意見を彼は冷静に受け止めました。あっちのほうがはるかにうわ手でした。

「そういう考えも確かにあるだろう。だけど、君だって企業に就職する際に身元調査されたじゃないか。それについてどう思うのだ」

「身元調査したい人はすればいい。だけど、そんなもの必要ない、と思う人だって少なくないはず。自然に消えていくのが一番。」と、私はあくまで自然消滅にこだわりました。差別を主張すればするほどむしろ際立ってしまう、と。彼の考えがけっきょくどういうものだったか覚えていません。向こうも納得しませんでしたが、私も納得しませんでした。


 

 ※ ※


 ちょうど40歳になるころでしたか、翻訳の仕事が軌道に乗ってきたので、少し環境のよい処へと滋賀の湖西に引っ越しました。物欲がないなどと言いながら、引っ越しのときには結構な荷物になっておりました。しかし、引っ越しは1DKの団地から3Kの団地、狭いところから広いところに移るのだから楽なものでした。それまで独身者は1DKしか入居することができなかったのですが、そのころには団地も一人で入居できるところが増えていたのです。

 活動期には人ともよく飲みに行ったり、あちこち出かけたりしていました。結婚話らしきものもないではなかったのですが、子供のころからなんとなく自分は結婚しないだろうと思っていました。自分が良き妻、良き母親になれないことはわかっていたのです。むろん世の中の母親を見てみれば「少なくともあれよりは自分のほうがましであったろう」と思われる例もありますけれど、それでも子供をもたないでよかったと思っています。

 反抗期のころ、子供をもつときもっと考えなかったのか、少し無計画ではなかったか、と母をなじったことがあります。すると、

「あほか! そんなこといちいち考えてたら、子供なんか産めるか!」と一喝されました。

 そうかもしれません。なにも考えていなかったからこそできることは世の中にたくさんあります。世の中には考えすぎて踏み出せない人もたくさんいます。

 子供のころから団塊の世代は「多い、多い」と絶えず言われ続け、いつもひとくくりにされ、肩身の狭い思いをしてきました。私など、だから、子供をもたないことでむしろ社会に貢献しているのではないかと思っていたぐらいなのに、いつの間にか少子化が問題とされるようになってきました。一クラス57人でぎゅうぎゅう詰めになっていたときのことを考えると夢のようです。

 しかし、正直、子供をもたなくてよかったと思ったことは数えきれませんが、子供をもっていればよかったと思ったことは一度もありません。

 まだ大阪の団地に住んでいたころ、おそらく図書館通いをしていた時代、時間があるのでいまのうちに歯の手入れをしておこうと近くの歯科医で歯石をとってもらったことがあります。担当の歯科衛生士は若い女性で、丁寧にクリーニングをしてくれました。また非常に愛想のよい人で歯石をとりながらいろいろ話しかけてこられます。こちらもそれに応えねばと思うのですが、歯の掃除をしてもらいながら話をするのはそう簡単ではありません。

 ま、それでも「ふぁい、そうれすね」とそれなりに会話ははずみ、そろそろ終わりかと思うころ、その衛生士の方は「でもいい歯をおもちですね。お母さんがこれだけきれいな歯をしていれば、きっとお子さんの歯も立派なことでしょうね」とほめてくれました。

「ふぁ、ひや、ころもはおりまひぇん。結婚もひておりまふぇんし」と笑いながら答えると、衛生士の方は急に黙りこくってしまわれました。

 あれだけおしゃべりしていたのに、と、ちょっと変な気はしましたが、治療はそのあとすぐ終わったので、立ち上がり、お礼を言って立ち去ろうとすると、衛生士の方は深々とお辞儀をされています。あわててこちらも深々とお辞儀を返し、お金を払って今度こそ立ち去ろうとして後ろを見ると、なんとまだお辞儀をされているではありませんか。仕方ないのでこちらももう一度お辞儀をしてあわてて立ち去りました。

 帰る道々、しかし、なんだって歯医者であそこまで馬鹿丁寧なお辞儀をしなけりゃならんのよ、と訝しく思ったものの、買い物をしているうちにすぐ忘れてしまいました。

 その夜、ベッドに入ってハッと気が付きました。

「あの人は自分が余計なことを言って私を傷つけたと思い込んだのだ。それがあの馬鹿丁寧なお辞儀だったのだ」

 以来、私は、あの方が私を傷つけたと思って傷ついておられるのではないかと思い、傷ついています。

 世の中には、子供を欲しいと思わない人間も確かにいる、ということが、どうしても信じられない人がいるようです。

 「まだ結婚しないのか」とか「なぜ結婚しないのか」と周りからうるさく言われてうっとうしい、と嘆く女性はいまだに多くいると聞きますが、私にかぎっていえば親も親戚も誰もそんなことは言いませんでした。言われたら、「結婚なんて」とか「そもそもそういう質問は云々かんぬん」とひとしきり切り返すだろうと思っていましたが、誰も聞かないのでそのセリフを言う機会はついぞ恵まれませんでした。

 母は四人姉妹で、姉妹どうし実に仲が良かったのですが、かれらの親、つまり私の祖父母は喧嘩ばかりしていたと母や伯母たちからよく聞かされました。

 明治15年、四人兄弟の末っ子として生まれた祖父の軍服姿の写真を見たことがあります。これは日露戦争のものだったようで、なかなか凛々しい姿です。おそらく帝国軍人としての誇りも高かったことでしょう。女性関係もあったかもしれません。

 しかし、祖母もまた多数の兄弟の末っ子として生まれ、甘やかされて育っていました。とにかく気が強い。殴られれば殴り返す。絶対に自分の意思を貫くタイプです。

 長女であった明治45年生まれの伯母は、子供のころから両親の喧嘩の仲裁に駆けずり回り、ほとほと難儀したといいます。

 晩年になっても二人の喧嘩は続き、祖父は時々三女であった私の母のところに避難してきていました。

 祖母から祖父の悪口を聞かされ続けてきたものの、孫からみれば祖父はまことに好々爺でしかありません。晩年、足腰が弱って寝たきりになってからは相撲の取り組みを最大の楽しみとし、伯母の作る特製の「おじや」をいつも「ああ、うまかったー」と美味しそうに食べていました。

 またその枕元にはいつも金平糖がおかれ、私がそばに寄っていくと好きな色を選ばせてその金平糖のお相伴をさせるのでした。

 そいういう祖父の連れ合いであった祖母は、私に会うと、「結婚なんかするな、ひとりのほうがよい」といつも言うのです。自分の結婚生活がうまくいかなかったからといって孫にまでそれを押し付けるのはどうかと思いますが、とはいえこれはべつに祖母に言われたからそうなったというわけではありません。

 気の強い祖母ではありましたが、一方でその気の強さが当時四人もの娘を女学校に通わせることにつながったのかもしれません。祖父は赤穂で製塩業を営んでいました。私が物心ついたときにはすでに赤穂を離れ神戸に移っていましたから私には赤穂の記憶は一切ありません。ただ、当時、四人もの娘に女学校まで通わせるのはそう楽ではなかったはずです。それはやはり祖母の強い決意の表れだったといえましょう。

 晩年、祖父が亡くなったのち、この祖母は認知症となり、家を継いだ伯母は疲れ切ってしまいました。

 財布がなくなった、品物を盗まれた、ご飯を食べさせてもらえない、等々、世話をしている人々の神経を逆なでするような妄想が日常的になっていきます。

 時折、伯母一家の我慢の限界がきてしまい、我が家が祖母を預かることもあり、そうなると今度は母がまいってしまいました。

 食べ物についての祖母の執念は私も経験したことがあります。

 我が家に来たとき、少しは気分転換になるかも、と、祖母を連れて知り合いの山荘に泊まったことがありました。母はそのとき巻き寿司を作ってもっていきました。その巻き寿司をよく食べるなあと思いながら見ていたのですが、ま、食べ物で満足するなら安いもの、と私などは思っていました。

 伯母は祖母がのべつまくなしに食べるので体を壊すと心配していましたが、私は「いくら体を壊したって、本人が食べたいんだから、放っておけばいいじゃん」とクールでした。

 「そういうわけにはいきません。こっちにも責任というものがあります」と、さすがに明治生まれの伯母は筋を通します。

 で、山荘に泊まったその夜、私と祖母は枕を並べて寝たのですが、

 真夜中、ふと目が覚めると横でくちゃくちゃ音がします。

 祖母が台所から巻き寿司をとってきてつまんでいるのです。

 そりゃ、夜中にお腹がすいて何かを食べる、それだけのことではあります。

 しかし、真っ暗闇の中、とつぜん誰かが寝床の中でものを食べている音を聞くというのは、正直いってぞっとしますぞ。

 食べるという行為は、やはりそれなりに常識的な範囲でやってもらわないと、周りのものが閉口します。

 九十二歳まで生きた祖母ですが、そんな祖母も加齢とともに体力も落ち、入院しがちになっていきました。

 母の使いで私がお見舞いに行かされ、病室の祖母と会話をしたことがあります。世間話は至極まともです。

 笑いながら話していた祖母は、しかし、とつぜん「で、あんたはん、どなたはん?」と言い出し、私を驚かせました。

 誰と話しているのかもわからないのなら、お見舞いなんか行っても無駄だ、と若かった私は簡単に見限ってしまいましたが、伯母たちはそうはいかないようでした。最後は施設のお世話になりましたが、そこに至るまでも、いやそこに至っても、母たちの苦労はずっと続きました。

 当時は介護の問題がいまのように社会的に取り上げられることはそう多くありませんでした。父が亡くなったあと、我が家は母とおしゃべりをしにくる人たちのたまり場となり、そこでは介護の苦労話が延々と繰り広げられていました。それぞれが一通りぐちり終わると、

「ま、でも、けっきょくは、順繰り、順繰り、なんよねえ」

「そうそう、じゅんぐり、じゅんぐり」

 と、母の世代の人々は、お経のように、じゅんぐり、じゅんぐり、と唱え、自らを納得させるのでした。

 私の本名の「摩野」という名前は祖母によって登録されたそうです。父は「摩耶」と名付けたのですが、出生届を出しに行った祖母は窓口で「耶」の字は使えないと言われ、「野」にしたといいます。昭和二十四年当時は名前に使える漢字がかなり制限されていたようです。興味本位に調べてみると昭和二十四年に当用漢字の通達を行ったのは吉田茂内閣でした。

 しかし、父はあくまでも摩耶の字にこだわり、そういう事情を知らないまま、私は十八歳で就職する際、戸籍謄本をとって初めて字が違っていることに気が付いたのです。そもそも住民票のほうは通名通り「摩耶」になっており、それもあって、長い間、気づかなかったのです。

 親に聞くとそういう事情だということで、「で、どうしたらいいの」とあらためて問うと、

「今はこの字も使えるようになっているから、変えるんなら手続きをすればいい」って、それは親がするもんでしょ、と、内心思いましたが、らちがあかない気がして何も言いませんでした。

 どうも親には何事もあまり期待してはいけないと子供のころから学んでいたようです。

 ふんぎりがつかないまま、その後も30歳ころまで「摩耶」の字を使い続けていましたが、しかし、のちにパスポートを取る際に、思い切って「摩野」に変更することにしました。とにかく、様々なところでいちいち説明しなければならず、いいかげん面倒くさくなっていたのです。慣れるまで少し時間がかかりましたが、いまは「野」の字のほうが好きになりました。

 父方のほうの祖父母についての記憶はまったく残っておりません。幼いころは父の実家ともけっこう頻繁に行き来があったようですが、私にはまるで記憶がありません。母は時々、父の身内のことを話題にしていた気もしますが、私にとってはみな記憶のない人たちでした。

 子供のころ、同級生とおじいちゃんとおばあちゃんの話をしていて、「どっちのおじいちゃん、おばあちゃん?」と聞かれ、おじいちゃんとおばあちゃんは一人しかいないのに、変なことを聞くなあと思ったものです。

 父のお葬式のときに、はじめて父方の親戚の人たちを見ました。もっとも、わかっていなかったのは私だけで、先方はみなこちらのことをよく知っているようでした。

 生涯で一度きり見たと認識できる父の兄弟という人は、焼香を終えたあと、「焼香の順番は市長よりわしのほうが先や」とぶつぶつ文句を言っていました。私にとっては、初めて見た人が、身内だといって、焼香の順番にこだわるのはなんだか妙な気がしたものです。

 ともあれ、我が家の親戚付き合いはほぼ一方的に母方サイドであり、ファミリーカルチャーとして四人姉妹だった母方の女学生的傾向に大きく支配されていたように思われます。

 四人姉妹は、聡明だった伯母の影響か、揃って本好きで、仲が良く、私たちもまた子供のころは従姉妹たちとよく集まって百人一種や花札、トランプなどを楽しんでいました。

 百人一首は家でも折に触れしていましたが、幼いころは意味がわからず、自分の札をとってしまうと、あとはただぼーっと見ているだけでした。

 自分の札というのは「をとめのすがたしばしとどめん」で、「を」の札はひとつしかないから、これはだいたい一番小さな子供に取らせるようにしていたようです。

「あまつかぜー」と読み手が読み始めると、「はい、ほら、そこ、そこ、」と周りじゅうがおだて、最初からそこにあるのがわかっているのに、それでもあせって取っては、やれやれ、と、一仕事終えた気分になるのでした。

 サザエさんの漫画で「なんです、それはワカメがとれる札でしょうが」と、サザエさんがカツオを叱っているシーンがありますが、してみるとどこの家でも同じような習慣があったとみえます。

 母が百人一首の読み手になったときは、「しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける(ふんやのあさやす)」の歌の最後のところを「たまぞぱっちり」と読んでいました。ひょっとしてこれも女学生のあそびのひとつだったかもしれません。大きくなって自分が読み手になったときに真似してみましたが、あんまりいいとは思えませんでした。


 ※ ※


 大阪の団地から湖西の団地に引っ越す前からもそうでしたが、越してからはますます人好き合いは減っていきました。新聞も最初のころは朝日と毎日、それからたまに日経などを購読していたのですが、朝日の素粒子を読むたびに気分が悪くなります。そもそもユーモアのセンスがまるでずれてきているのです。中島らもの「明るい悩みの相談室」などは面白かったのですが、それなら図書館でも読めます。

 そこで思い切ってすべての新聞を解約し、代わりに有線放送と契約しそれに新聞の費用をまわすことにしました。個人で有線を引くのは贅沢でしたが、インターネットもまだYouTubeなどない時代、結果としてこれはその値打ちがありました。

 最初の目的は英語放送を聞くためだったのですが、次第に寝る前に聞く落語や朗読、昔話が欠かせなくなってしまいました。落語家は、小さん、圓生、米朝、志ん朝、春団治、金馬、一番のお気に入りは古今亭今輔師匠です。

 ある夜、もうかなり夜更けになってから圓生の「もう半分」を聞きはじめました。

 私にとっては初めての噺でした。

 まずお酒についてのまくらが始まったのですが、それが圓生にしては珍しくつまらない話で、いつまでも延々と続きます。あんまり退屈なものだからいっそスイッチを切ろうかと思っていると、

「永代橋のある土手裏に、一軒の注ぎ酒屋がございました」と、やっと本題に入ったので、ほっとしました。

と、何気なしに聞いているうちに、ぼてふり老人が身投げをし女房が身ごもったというところから、体じゅうの毛がそばだってくるほど、いやもう、それは、怖いのなんの。

 私は一人暮らしをしていても一度たりとも怖いとか寂しいとか思ったことはありません。しかし、このときばかりはまさに「あわわわ」という表現がぴったりの状態になり、部屋じゅうの電気をわらわらとつけてまわるぐらい怖かった。正直、あまりの怖さに聞くのもやめたかったのですが、途中で終わればあとでもっと怖くなると思い、震えながらも聞き続けました。

 よく朝、そのストーリーを落ち着いて振り返ってみました。昼日中、さんさんと陽のてる中で思い出すと、そりゃ、怖いっちゃ怖いけど、何も震えあがるほどのストーリーでもあるまい。

 ですが、あのすさまじいまでの恐ろしさは、まぎれもなく本物でした。じつにあれが芸というものでありましょう。


 ※ ※


 1995年の阪神淡路大震災は九十キロあまり離れたこの滋賀県湖西で経験しました。

 5時46分、私はベッドの上で煎り豆のようにぽんぽん弾かれ、あやうくベッドから落ちるところでした。すぐにラジオのスイッチを入れます。NHKが地震のニュースを流していました。

「現地の〇〇さんに報告してもらいます。〇〇さん、どうぞ」

 アナウンサーは実況を始めます。「はい、私はいまどこそこにおります。目に見えるのは...」

言いかけたあと、無音になりました。「もしもし、〇〇さん、もしもし」スタジオのアナウンサーの問いかけもむなしく無音が続きます。今思えば、あまりの状況に絶句してしまったのでしょう。

 その後の報告がなかなか入らないので私はあきらめて朝食の用意をし始めました。団地は静かでした。あれだけの揺れだったから何か騒ぐ人がいても不思議ではないのですが、いつもの朝と変わりはありません。

 7時34分、トイレから出ようとするところで余震が走りました。今度はあやうくトイレのスツールから転げ落ちるところでした。

 その直後、同じ大津に住む友達が心配して電話をくれました。

「すごかったねえ。震源はどうやら神戸らしいよ」と言われ、意外でした。あんまりひどい揺れだったのでてっきり滋賀県が震源地だと思っていたのです。

 この友達からの電話を最後として、その後滋賀でも一切の電話が長期間、不通になったのですが、そのときにはまだ事態の深刻さがよくわかっておりませんでした。

 昼を過ぎるころからニュースがどんどん入ってきます。テレビがないのでずっとラジオの前に座って聞いていました。次々と伝えられるニュースはあまりにも衝撃的でした。

 ふと気がつくと外は暗くなりはじめています。昼過ぎから手を炬燵机に置いたまま、ひたすらラジオに聞き入っていたものですから、体はすっかり硬直していました。自分の手が何時間も彫像のように動いていないことに気が付いて驚いたものです。

 この後数週間は日にちの感覚がまったくなくなってしまいました。いまだに時系列がうまくつながっていません。ただ、ラジオから聞こえてきた災害担当者の方の悲痛な声が今でも耳に残っています。

「みなさん、お願いです。来ないでください。ご親族の方々をご心配するお気持ちは十分わかります。でも、いまは救急車両のための道を確保しなければならないのです。お願いです。もうしばらく待ってください」

 親族や友人の身を案じ、人々が一斉に車で駆け付けたため、今度はそれらの車で道路が封鎖されてしまったのです。むろん、人は後からなんとでもいえますが、身内を気遣って駆け付けようとするのは人情というものでしょう。

 神戸の楠谷で一人暮らししていた伯母の身が案じられましたが、どうしようもありません。一週間ほどして伯母が無事だと知らせてくれたのはオランダに住む従妹でした。国内の電話は不通だったのに、国際電話は正常につながったのです。

 伯母は地震発生直後に加古川から駆け付けた息子、私の従兄弟に救出されたそうです。従兄弟はまさに地震直後に車に飛び乗り、猛スピードで駆け付けたといいます。後に「長田は、それはもうひどかった」と言っていましたが、それでもそのときはかろうじて車が通り抜けることができたのでしょう。その後には火災が一気に広がり、一切の道路がアクセス不能になってしまいました。

 震災から数か月たち、そろそろ人心地がついたころ、芦屋にいる友人たちも招いてうちでパーティーをしました。芦屋も甚大な被害を受けたところです。

 ひとりの友人は香水を集めていて、その戸棚がすっとび、すべての瓶およびガラス類が砕け散ったといいます。匂いも強烈だったでしょうが、なにより部屋の中が足の踏み場もないほどガラスのかけらが散らばってしまった状態です。幸いこの人は家でも室内用の靴を履くのが習慣だったため、かろうじてそのガラスの砕け散った部屋から外に出ることができたといいます。このことから、寝るときにはベッドの近くに必ず「しっかりした靴」を用意しておくべし、というまことに実際的な教訓を得ました。

 もうひとりの友人は、滅茶滅茶になったマンションの部屋からほうほうの体で外に出て、まわりを一目見た瞬間、

「ああー、もう日本は終わりや!」

と、悲痛な溜息をついたと言います。

「本当にそう思った?」

「うん、本気でそう思った」と、彼女は深々とうなづきました。

 それを聞いて私たちははじけたようにきゃあきゃあと笑い転げました。笑えるのは幸せでした。

 

 振り返ってみると、オウム真理教の地下鉄サリン事件は3月20日でした。しかし、この事件がすごい事件だったのだと実感したのは、かなりの時を経てからのことです。当時、むろんサリンとやらが撒かれ多数の死傷者が出たことは承知していましたが、東京の出来事でもあったし、関西に住んでいた私たちの頭はまだ地震のことでいっぱいだったのでしょう。記憶が鮮明でないことに、今更ながら驚かされます。

 神戸の地震に話を戻すと、あれは4月だったか、この震災復興のための宝くじが発売されました。物欲は強くはないけれど、さりとて金銭的余裕があるわけでもありません。フリーランサーというのはなんの保障もない仕事ですから無駄遣いはできません。それでも多少の貢献はすべきとは思うから、欲も手伝って宝くじを100枚買うことにしました。二万円です。

 堅田の平和堂にある宝くじ売り場に行くと私の前に男の人がいて、その人は片手にわしづかみにするほど買っていました。私も100枚買って手にしましたが、100枚ぐらいではわしづかみにはなりません。いったいこの人は何枚買ったのでしょうか。

 で、この私の宝くじですが、これがなんと当たったのです。

 連番で買った宝くじを調べながら、やっぱりこんなもの、なかなか当たるもんじゃないなあ、と思っていたのですが、ふと、待てよ、この続きなら、え、あら、当たっている、100万円が。

 このときの最初の印象は、「なーんだ、百万かあ」という、まことに罰当たりな感想でした。

 宝くじというのは、買えばやっぱり、一等が当たるかもしれない、と思うものらしいです。

 一等に比べれば100万円は小さい。まことに人間とは度し難いものであります。

 私の前に買ったあの男の人の宝くじが当たったかどうか知りませんが、前の人があれだけ買ったからこちらに運が回ってきたということも考えられます。まさに運とは不可思議なもの。

 百万円は、半分を寄付および身内とのシェアとし、半分を自分で使いました。他の宝くじなら誰にも言うつもりはありませんが、さすがにこれは独り占めできません。また百万という金額は、少々のシェアでみんなにも喜んでもらえるから、理性も保てる金額といえましょう。

 とはいえ、始めて買った宝くじが当たったものですからつい味を占めました。やっぱり欲はある。買いたいものはとりあえずないけれど、お金はやっぱりあるに越したことはない。それで残りの50万円のうちから3万円使って次のジャンボ宝くじをまた100枚を買ってみました。

 結果はもちろんはずれ。当たったのは末尾の10枚だけ。それですっと熱がさめました。

 以後たまには買いますが、小出しには買わずに運をためておくことにしています。


  ※ ※ ※


 このころ、すでに新聞の購読はやめていましたから、新聞はまとめて堅田の図書館で読んでおりました。しばらくして次の駅の和邇にも図書館があると知って、お天気のいい日は散歩がてらその和邇の図書館に行くようになりました。

 このあたりはまだ農業が盛んで、田んぼ道を歩いていくと幼い日のレンゲ摘みを思い出し、いつも懐かしい気がしていました。

 レンゲも嬉しかったのですが、子供のころ西洋タンポポと区別して勝手に「日本タンポポ」といっていた黄色の可愛い花もあり、それがまたとくに懐かしい思いがしました。

 幼いころはこの花をみると競って摘んでいたものです。ところが、調べてみるとこれは「ジシバリ」と呼ばれる雑草で、農家では駆除に苦労されていたとのこと。それを聞いて、とたんに見る目が変わりました。

 子供のころでも珍しいというほどではなかったにしろ、探して見つけていたところをみると、きっと農家の方が小まめに駆除されていたのでしょう。いずれにしろ、それと知った途端、私の中で価値が下落したから勝手なものです。

 ある日、その和邇の図書館で映画をやっているというので覗いてみました。原節子の「白雪先生」でした。

 やさしい、やさしい、白雪先生。いくぶん不自然ながら、とても後味がよかった。

 それに味をしめて時間のあるかぎり日曜日はこの図書館に通うようになりました。

 そしてここで初めて私は映画に開眼したのです。

 様々な小津安二郎の映画はどれもよかったのですが、若き日の笠智衆の「生きている画像」も面白かった。

 笠智衆演ずる不器用な弟子がやっと見つけた幸せ、その婚礼の席で大河内伝次郎扮する瓢人先生は「おかめとひょっとこ」踊りを披露します。これがもう、じつに粋。

 しかし、開眼の契機はこれではありません。それは「パルプ・フィクション」。

 さんさんと朝日のあたる部屋にとぼけた会話を続けながら入っていく二人の殺し屋。

 とつぜん、問答無用に放たれる銃弾。

 圓生の「もう半分」ではないけれど、その落差に文字通りおののきました。思わず、立って帰ろうとしたぐらいです。だが我慢した甲斐がありました。これはぎりぎり私のツボにはまったのです。おそらくこのぎりぎりが満足度を高めるのでしょう。

 ただ、正直、これ以外のタランティーノの映画はほとんどぎりぎりの線を越えたものばかりです。

 日本映画は小津のものが多かったのですが、洋画もパルプ・フィクション以外に珠玉の作品が揃っていました。

 三人三様の刑事の姿と描いた「ロサンゼルス・コンフィデンシャル」。

 車の中から、犯罪者かもしれぬ、それでも思いきれない女を切なく見守るラッセル・クロウ扮する実力派刑事バド、常々「刑事たるものが眼鏡など」といわれているものだから新聞記者を目にするやさっと眼鏡をはずす謹厳実直エリート刑事エド、そして、そこそこ融通はきかせるとはいえそれなりに刑事の仕事に誇りをもちTVドラマのアドバイザーの仕事を生きがいにしているジャック。作者自身が犯罪者だったというジェイムズ・エルロイ原作の映画です。


 イタリアの純朴な郵便配達人を描いた「イル・ポスチーノ」。

 祖国チリを追われた世界的詩人。その詩人専用の郵便局員として雇われた、カプリ島の純朴な青年、マリオ。マリオはいつしか詩人を敬愛するようになる。詩とは隠喩なのだ、すべて隠喩なのだと説く詩人に、ではこの世界も隠喩なのか、と問うマリオに詩人ははっとする。その答えは少し考えさせてくれ、と言ったものの、彼はけっきょく答えを出さないまま行ってしまった。

 第二次世界大戦の直前、多くの若者が結婚に走りました。その悲喜劇を美しい葡萄園を背景に描いた、キアヌ・リーヴスの「雲の上で散歩」。

 見た映画をすべて書き留めていなかったのは残念ですが、この和邇の図書館で選ばれた映画は、まず、はずれがありませんでした。選んでくださったのはどなたか知りませんが、かなりの映画センスを持った方だと今も感謝しています。

 これをきっかけに私はツタヤに通い、一週間9本で1000円の映画を借りまくることになります。数十年もろくに映画を見ていなかったので遅れを取り戻すにはかなりの時間がかかりました。

 ただ、映画をまったく見ていなかったわけではなく、友達に誘われて何本かは見ていました。誘ってくれた友達は「ためになる」と思ってくれたのかもしれませんが、そういう映画はえてして「しんどい」だけのものでした。たとえば「マリア・ブラウンの結婚」。

 字幕は追っていたつもりですが、どうしてもストーリーについていけません。いまインターネットでストーリーを見てもやはりしっくりきません。同じ戦時中のあわただしい結婚でも「雲の上で散歩」と違い、まるで救いがないのです。これもひとつの現実であるでしょうが、戦時中のあわただしい結婚は日本でもあった話です。

 誘われて、しかし、よかったと思ったのがタルコフスキーです。ちょうどそのときタルコフスキーの特別プログラムがあったのでしょう。むろん有名な「惑星ソラリス」もそのプログラムに入っていました。「惑星ソラリス」は、しかし、手塚治虫のSFに馴染んでいたものにとってそう印象強いものにはなりませんでした。

 自らの無意識を表現化してしまう、この謎の惑星ソラリス、そこでは物理学者はわけのわからない幾何学体を前に、はて、これはどういうものか、と首をかしげ、一方で別の学者はちょろちょろとはじけまわる醜い小人を隠すことに追われています。そして主人公の心理学者は自殺した妻を目の前にすることになります。それはそれで面白い世界ではありましたが。

 タルコフスキーでよかったのは彼の卒業作品だったという「ローラーとヴァイオリン

 そして最も評価するのは「アンドレイ・リュブロフ」です。

 長時間の映画で、紹介してくれた当の友達は途中で何度もあくびをかみ殺していましたが、私はぐんぐん引き込まれました。

 またこれも別の友達から紹介された「タシュケントはパンの町」という映画とセットになっていた映画。長い間、この題名がこの映画のものだと思っていたのですが、よく考えれば題名と内容は一致しません。

 おそらくこれもウズベキスタンの話なのでしょう。

 ある家の老人が、代々伝わってきた何か特殊な樹木が枯れかかったいることに気づきます。これは一家のスピリット、絶やすわけにはいかない、と、老人は孫息子を連れてその苗木を求めて旅に出ます。旅先で老人と孫息子は様々な人々に出会い、いいこともあったし、悪いこともありました。しかし、ようやくのことでその苗木を手にすることができます。

 心も軽やか帰る道すがら、二人はタイヤが泥にはまり身動きできずに困っているトラックに出会います。なんとかしなくちゃ、と、老人はつい買ってきたばかりの苗木をタイヤの下にかませてしまうのです。

「やあ、ありがとよ」トラックの運転手はほがらかにお礼を言って去っていきました。残ったのは押しつぶされた苗木です。

 ぼうぜんとする二人。

 苗木はなくなりました。が、祖父から孫へと何かが伝わったはずです。


 まだ映画にハマる前のことだったかもしれません。友人が一冊の書物を紹介してくれました。

 河合隼雄氏の「明恵 夢を生きる」です。

 これが面白かった。そしてこれをきっかけにユングに興味をもつようになりました。

 ANDとBECAUSE。物事を因果関係で捉えようとするのが論理的思考であると思っていましたが、なるほどこういう視点があったのか、と、開かれた思いがしました。

 人には心的事実というものがある。自らの存在感はその心的事実に依存している。それを理屈で変えようとしても変えられるものではない。

 手がぼろぼろになっても石鹸で洗い続けないと気が済まない人がいるとき、「あなたはもう十分きれいになっているから」といっても始まらない。その人はわかっていてもやめられないのだから。

 その人がもしお墓参りに行ってその症状がおさまったとき、あるいは呪いを唱えてその症状がおさまったとき、「お墓参りに行ったから」あるいは「呪いを唱えたから」おさまった、と捉えると、とたんに合理的思考の中で破たんをきたす。お墓参りに行って、そして症状がおさまった。お墓参りに行ったこと、と、症状がおさまったこと、は、単に時間的に並行しているにすぎない。その人はその中で意味を見つけたのである。


 私があまり河合隼雄氏に傾倒したものだから、件の友人は心外だったのかもしれません。じつは本当に紹介したかったのはこちらの本だ、と、今度は岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」をもってきました。彼女の旦那が精神的にまいっていたとき精神科医に勧められたとのことで、彼女自身も非常に助けられたといいます。

 読んでみて、まいった。どこがものぐさなんだか。がんじがらめの閉鎖系でもがいているところを、さらに密封容器でぴっちり蓋をされたような、そんな気分でした。

 友人は河井隼雄氏の言っていることはどこが新規なのかちっともわからないといいます。私は私で、岸田秀氏のような思考から逃れたくてじたばたしていたのです。

 面白くないと言いながら、その河合隼雄氏を紹介してくれたのは当の友人なのです。不思議なもので、お互い、自分のもっていないものを必要としていたということなのかもしれません。

 ユングの心理学をかじって、思ったこと。神というのは存在を論じるものではなく、根源にあるのは、信じるか、信じないか、につきる。

 そして私のように徹頭徹尾、無宗教な家庭に育ったものがいうのもおこがましいのですが、

「何におわすか知らねども」、神的概念を「まったく信じない」というのは、むしろ「信じる」ということより難しいのではないか。

 さらにいえば、神と倫理とはまったく別ものであるということ。倫理とはこの世のもの、それは時代によって移り変わるもので、神の範疇ではない。どうやら「殺すな」という根源的倫理ですら、神の範疇ではないらしい。

 河井隼雄氏について、正直、氏の後継者であろうと思われる方々の本にはかなり失望させられました。

 どこかに師の知らない弟子が育っているかもしれないと期待しています。

 前述の友人の旦那は読書家で、彼女はまたべつに旦那が読んでいたという小説ももってきてくれました。

 船戸与一の「砂のクロニクル」。私自身はこの手の日本小説にはあまり手を出したことはないので、どんなものかと興味深く読み始めました。面白い。それは確かでした。

 読後、その旦那に直接会ったとき、

「面白かった。でも、これ、なんか、まるでゴルゴ13の世界みたいね」と言ったところ、

「あんた、スルドイ! 船戸与一はゴルゴ13の原作者の一人なんや!」と言われ、今度はこっちが「えーっ!」と驚きました。しかし、それですべてするすると合点がいきました。

 私の漫画の本棚にはゴルゴ13の全巻とサザエさんの全巻が並んでいます。


 ※ ※


 2004年、すでに50歳を過ぎてから私は思いがけなく結婚し、フィンランドにやってきました。

 その数年前、友人と二人で京都醍醐寺の裏山から山道をハイキングして醍醐寺の裏手につき、そこから境内を抜けて下っていたところ、これから登ろうとしていたカリ・グローンと出会ったのです。ふと目が合ったとたん、息を弾ませながら、「まだこの先だいぶあるかい」と、カリはまるで旧知の友のように英語で話しかけてきました。

「まだちょっとあるけど、そんなに長くない」と返すと、「つい最近、孫娘が生まれたところでね」と話をつづけてきました。太っているものだから登りがきつかったに違いありません。たわいもない話をつづけたのは一休みしたかったのでしょう。しばらく話したあと、「じゃ、頑張って」と別れたのですが、数分後、なぜかカリはまた引き返してきました。

 なんで引き返してきたのか本人にもわからないといいます。

 そこから数年にわたるメールの文通が始まりました。

 出会った場所がお寺だからこれも仏縁といいましょうか。


 普通の結婚でもけっこう大変だと思いますがが、国際結婚となるとその手続きのわずらわしさは半端ではありません。あんまりいろいろなことがありすぎて、何をどうしたのかもはっきりと思い出せないぐらいです。

 入籍は日本で行いましたが、結婚の許可をとるのも一苦労で、そもそも関西にはフィンランド大使館がなく、代理の事務所が心斎橋の大丸デパートの事務所にあり、そこを訪ねなければなりませんでした。訪ねてみると代理人の方もそんな手続きは初めてだったとみえ、東京の大使館に問い合わせ、やっとのことで書類が整いました。

 フィンランドに来てみると、最初の数年間は毎年のように結婚が本物であるかの質問票に答えなければなりませんでした。これは偽装結婚を防ぐためのものでしょう。どちらも結婚記念日などにこだわるたちではないので、その都度、えーっと結婚したのは何日だったっけ、と結婚指輪を調べてチェックせねばなりませんでした。すでに十数年が過ぎ、そういった当初のわずらわしい手順から解放されほっとしています。

 日本に一度だけ帰ったのは結婚して二年目か三年目のころ、雑用はありましたが主たる目的はパソコンを買うためでした。 

 翻訳の仕事にはバックアップ用のパソコンを含め常に二台使っており、基本的にOSが変わるたびに買い替えてきました。そろそろ新しい機種が必要でした。

 わざわざ日本に行って買ってきたのはDELLの機械でOSはビスタでした。これは単にその折のコスト・パフォーマンスを考えての決定にすぎず、最初の機械がNECだったのでずっとNECに義理があるような気がしていたのですが、あるとき富士通の機械が特価だったのでバックアップ用に使ってみたところ、もうどの機械でもそう大きな違いはないということを実感しました。

 仕事で便利だったのは、あれはたしかXPの時代だったか、FAXモデムの機能があり、パソコンがそのままFAXとして使えました。メールの時代になってFAXの意義も薄れつつありましたが、それでもあると便利なこともあり、この機能がいつの間にかなくなってしまったのは残念でした。

 ビスタは起動が遅いのが難とはいえ、もうパソコンもこの世代になると統一化がかなり進んでいたから乗り換えにはほとんど不自由は感じませんでした。

 思えばパソコンの原始期時代からのユーザーでしたから、苦労話は山ほどあります。

 まずインストールの苦労がありました。

 わけのわからないまま、configをいじり、driverをいじり、文字通り七転八倒しながら、ようよう動かせてほっとする。理論などわかっていないからすぐに忘れる。

 また新しい機種を購入し、同じようなことで一から苦労が始まる。

 その手順を何度繰り返したことか。

 知り合いのプログラマーに助けを求めたこともありましたが、プログラマーの観点とユーザーの観点とが異なるものだから、もうそれなら自分でやる、ということになってしまいます。

 プロというのは、素人のわかっているところとわからないところ、が、わからないのです。

 情報単位についていえば、私が初めて大阪から東京の翻訳会社にテキストを送ったときはまだ「バイト」の時代であり、それがすぐに「キロバイト」になり、次に「メガバイト」になったときはもう途轍もない大きさになったと感じました。ああ、あのとき、「メガ」という言葉がどれほどまぶしかったか。

 それが「ギガバイト」、「テラバイト」になり、その次は「ペタバイト」やらになるそうですが、こうなるともう驚かない。あのメガバイト以上の感激はもうないでしょう。

 メモリーは、10インチや8インチのフロッピーディスクから5インチ、3.5インチへ、さらには、CD、DVD、USBと、これまた飛躍的に向上しました。

 これも大きな変化を感じたのは3.5インチディスクでした。これが究極かと思ってしまいました。

 しかし、ここまでくると、あとはもういくら大きくなろうが、形態が変わろうが、驚くもんじゃありません。

 USBケーブルの有難みがわかるのも、初期ユーザーならではのことでしょう。

 わざわざフィンランドから日本までパソコンを買いに行ったのは、ヨーロッパで販売している機械の日本語の仕様がどうも信頼できなかったからです。でも、それも2006年か2007年のこと。

 2017年のいま、ウィンドウズ8からウィンドウズ10にアップデートしたところです。日本語のサービスパックはウィンドウズ7からインストールも簡単になり、ほぼ問題はなくなりました。

 フィンランド語のキーボードを使っているので、入力の違いについては少しとまどいましたが、使い込んでいるうちにすぐに慣れました。

 もはやパソコンのない生活は考えられません。それがヨーロッパにいてもほぼ不自由なくいつでも手に入れることができるというのは、私のようなユーザーレベルの人間にとってじつに心強い思いです。

 現在はデスクトップパソコン一台とiPad、そしてもう一台、麻雀、花札、将棋、ヘイデイなどゲーム用のタブレット。これが100ユーロもしないのですから、住みやすい世の中になったものです。

 長らく翻訳の仕事を続けられたのは、ひとつには一人暮らしであったからともいえましょう。フリーランサーは仕事が入れば納期に追われます。しかし、家庭をもつとなかなか時間もままなりません。

 気が付くと次第に翻訳会社からの仕事も無くなってきたので、62歳のときにリタイヤしました。

 あとは毎日インターネットを友として過ごす毎日です。


 ※ ※


 YouTubeで昔の映画がアップロードされているので、美空ひばりの映画も初めてじっくり見ることができました。

 子供のころ、我が家では、誰も禁じていたわけではないのですが、暗黙の了解で美空ひばりとは一線を画すところがありました。

 美空ひばり死して数十年、あらためてインターネットで鑑賞する機会を得て、いかに少女漫画が彼女の映画に影響されていたかを認識しました。 

 別の意味で面白かったのは「泣きぬれた人形」:

 戦後、両親を失い、ガード下で兄と二人で暮らす美空ひばり扮する女の子、アヤ子。

 兄は印刷所で働き、貧しいながら二人で支えあう毎日です。

 アヤ子の卒業式はもうすぐです。アヤ子はそこで歌を歌うことになっており、そのための新しい靴と洋服を用意していました。こつこつときりつめながら貯めたお金で買ったものです。

 そこへ兄の友人が一夜の宿を借りにきます。どうも胡散臭い人なのでアヤ子は気がのりませんが、兄の友人ならやむを得ません。

 しかし、翌朝、アヤ子の予感は的中しました。友人はアヤ子の新しい靴と洋服を盗んで姿をくらましたのです。やむなく、アヤ子は晴れの卒業式だというのに、普段のみすぼらしい恰好のまま壇上にあがって歌を歌うことになります。

 このときのアヤ子の服を見て思わず吹き出してしまいました。

 そうそう、あのころ女の子はみんなこんな格好をしていたなあ。毛糸のカーディガンにボタンをつけてセーターのように着るのです。

 そのカーディガンの裾が、おそらく毛糸が足りなかったのでしょう、ちぐはぐになっているところが、これまた芸の細かい演出です。アヤ子の場合にはさらにそのカーディガンに大きな穴まで開いている。

 穴こそ開いていませんでしたが、また裾もあれほどひどくはないものの、どことなくちぐはぐなカーディガンを、私も同じように着ていました。映画は昭和26年。私が生まれたのは24年。まだまだ日本は貧しかったのです。

 このカーディガンを見て、むかし米軍の放出品の市場が神戸のガード下にあって、そこで毛糸を買ったという人の話を思い出しました。これはひょっとしたら母の話だったかもしれません。

 そしてはっとしたのは、サザエさんの初期の漫画の中で、サザエさんが闇市に行って放出品の品定めをしながら、「ねえー、放出の下駄はないのー?」と叫び、それをまわりの人があきれて見ている、といったシーンがあります。

 長い間、私はこの漫画のパンチラインを理解できないままここまで来ました。

 そして、ここに至って、初めて理解したのです。

 米軍の放出品に下駄などあるはずがない。下駄をはくアメリカ人などいないのだから。

 ちなみにララ物資もこのころから届きはじめ、給食が開始されました。

 そのララ物資から支給されたという給食の脱脂粉乳を、私は、まことに有難く頂戴したことになります。

 映画や動画以外にもインターネットで有難いのは本が読めることです。ただ、初期の電子書籍ではダウンロードしたはずの本がいつの間にか無くなっていたことがあり、かなり改善されてきているとは思うものの、まだ少し不安が残ります。私は、気に入ったら、同じ本を何度でも読みたいたちです。

 T-timeは活字が見やすく気に入っていたのに、いつの間にか購入先すらわからなくなってしまいました。それでもダウンロードした本は今も読めるから良しとしましょう。

 初めて購入した本は中村うさぎ氏の「ショッピングの女王」でした。

 こういう方に対しては私は心から畏敬の念を禁じ得ません。たとえそれが想像の世界であっても、まず私などが及ぶ範囲ではない。そういうとてつもないことを実際にしているというすっ飛んだ現実。加えて、氏は突拍子もない買い物をしながらも、片方では醒めている。その醒めている部分で物書きをされているのでしょう。

 いろいろ試行錯誤した結果、電子書籍は、いまのところ、漫画も読めるのでeBookを使っています。みなもと太郎氏の「風雲児たち」もフィンランドに持ってこれませんでしたが、電子版で読めるのがありがたい。

 ただで読める青空文庫も大いに活用させていただいています。現代作家はどれも物足りなく、あきたらない思いでいたのですが、昔の書籍をこんな形で身近に読めるのも現代テクノロジーのおかげです。思ってもみなかった本にふれることができるのですから。

 まず、中里介山の「大菩薩峠」。そういえば机龍之介って映画でも有名だったけど、実際のところどんな話だったっけ、と、ふと手にとって読んでみると、これがもう、ながーい、ながーい話。

 おまけに、最後には机龍之介はどこへ行ったやら、これまた意表をついた「椰子の巻」で終わるのです。まさか「机龍之介」が「椰子」で終わるとは思ってもみませんでした。

 れっきとした幕府旗本の一家の主が被差別出身者とされる娘と恋に落ち、息子が生まれる。あり得ない事態が、幕府崩壊直前というあり得ない時期に起こり、新天地に希望を託すという結末です。

 たしかポッドキャストで聞いていたプログラムの中で、放送大学の先生が、幕府から明治に移るまでの時代を描いた小説なら、自らが旗本出身であった岡本綺堂を薦めるというので、あ、それなら「半七捕り物帳」かと、これも青空文庫で読み始めました。

 なるほど、時代背景ということからいえば興味深い。ただ、小説としてみれば池波正太郎氏や平岩弓枝氏のようにこなれきったストーリー展開を期待すると期待外れになるでしょう。放送大学の先生の推薦がなければまず読まなかった本ですが、読んでみると、もし時代小説を志す人があるとすればこれを読まずには書けまいと思ったことではありました。

 これも「ふと」読んでしまった、内藤鳴雪の自伝。れっきとした侍がこれまたなんという時代の変化を経験したことか。脱脂粉乳からインターネットの時代などという生易しいものではありません。まさに天地がひっくり返るという価値観の違い、そんなものは経験したこともないし、経験したくもありません。

 鳴雪は松山藩の高位の武士の倅、もともと「文」の道を得意としていたとはいえ、ある時には主君のためにもはやこれまでと覚悟したこともありました。

 しかし、御一新、時代は移り、かれは小学校、中学校の普及に関わる学校教育に携わることになります。

 教育は平等にと、明治維新の下で推進する鳴雪に立ちはだかるのが因習の壁。被差別者とされていた人々を説得しに行くと、かれらが差し出した茶さえ、飲むことを拒むのが同僚の人々でした。そういう同僚を横目にして茶を口にするのはそう簡単なことではなかったでしょう。

 また、被差別者とされていた人々もまた黙っていません。平等に教育を受けられるというのなら、ぜひとも受けたい、たとえどのような迫害にあおうとも。そのような人々の自尊心も頂点に達していたのでしょう。違いがないということを実感し続けていたでしょうから。

 一方ではかれらとの同席を頑なに拒む人々がいます。その双方をなだめながら新教育を進めていかねばならなかったのです。その苦労は並大抵のものではなかったでしょう。

 鳴雪の名前は成行とも記されていたといいます。その字を見て、ああー、なるほど、このような人生なら「すべて成り行き」と、言いたくもなろうと思いました。

 もう一冊。YouTubeで耳にした江守徹氏による朗読「山月記」。これがじつに見事だったので、青空文庫でも中島敦の作品を探してみました。どの作品にも味がありますが、「沙悟浄の手記」にはまさに日本人の真髄が含まれているように思います。

 中島敦は教科書編纂の仕事でパラオに行っていますが、こういう人を公職でパラオに行かせている日本は、当時の欧米諸国が支配してきた植民地とは違った観点で現地を見ていたはずです。少なくとも現地の人々の文化に対する敬意はあったでしょう。それは作品からも読み取れます。

 わずか三十三歳で早世したとのこと。まことに惜しまれます。


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 2011年3月11日、フィンランド時間でたしか夕方だったか、横浜の従姉妹からメールが入りました。

「今、地震ですごいことになっている。津波で車がどんどん流されている。テレビをつけてごらん」

 あわててテレビをつけNHKワールドを見ると、緊急番組で津波の様子が写されています。目を見張りました。

 このあとは阪神淡路大震災と同じく、もう正常な時系列の感覚を失ってしまいました。

 そして福島原発の爆発。

 セシウムが発見されたと報じられた時点で、カリが早々と「もうだめだ、メルトダウンだ、メルトダウンだ!」と叫ぶものだから、私もむきになってしまいました。

「まだ希望はあるって言ってるわよ!」

 希望はある、と、思いたかった、というのが本音かもしれません。

 その後数日間、カリは私をはばかってか小声で、それでも「メルトダウンは間違いない」とつぶやき続け、私はまだ抵抗していました。けっきょくはカリが正しかった。

 1986年のチェルノブイリ事故のとき、カリは下の娘を保育園に迎えにいく途中でそのニュースを聞き、雨に降られるのを極度に心配したといいます。言うまでもなく、当時のチェルノブイリ事故は、フィンランドでも大騒ぎになりました。

 福島原発をメルトダウンと断定したカリはその後も、「すぐにでもコンクリートで固めて石棺にしてしまわないとだめだ」、と言い続けていました。

「汚染水は海に流すしか仕方あるまい。海は広いから希釈される、それはフィンランドの専門家も言っている」と。

 それに対し私は聞く耳をもちませんでした。私が聞く耳をもとうともつまいと、なんの影響もないけれど、これについてもカリの言ったことのほうが結果として正しかったのかもしれません。

 フィンランドのある一部の地域では今でも放射能レベルの高いところがあるといいます。

 福島の事故後、日本で放射能レベルを云々する議論を聞いていたカリは「こっちは今でも福島より高いんだぜ」と、チェルノブイリの経験者としてしたり顔で言うのです。はたしてこれが慰めになるものやら。

 さて、話を戻し、何もないときでも日本にこのような大災害があれば私たちがテレビに釘付けになるのは当然ですが、加えて、そのときカリは3月26日から日本に旅行に行く予定で綿密なスケジュールを立てていたのです。震災から二週間後のことです。私は同じお金を使うなら日本ではなくヨーロッパの旅行に使いたかったので、これはカリの単独旅行でした。

 あの震災からわずか二週間後となるプランです。

 行くべきか、あきらめるべきか。カリは毎日悩み続けました。

 私はあきらめるべきだと主張しました。フィンランド政府からも日本旅行を自粛すべきとの通達が出ています。フィンランド航空も無料でキャンセルに応じると言っています。

 毎日のニュースを見ていたらとても観光旅行ができるような雰囲気ではありません。ましてカリの目的はお祭りの写真を撮ることです。そのために立てた日本縦断の綿密なスケジュールなのです。その祭りがほぼすべて中止になりそうな状況なのです。

 日本に到着して最初に泊まるホテルは、楽天トラベルだったかヤフートラベルだったかで予約した茨城県水戸にあるビジネスホテルでした。その水戸のホテルからも営業不能との連絡がありました。

 ここまできたらあきらめるより他ないでしょ、と私は説得にかかりました。しかしカリはあきらめきれない。

けっきょく、スケジュールをすべて見直すことにして、東日本はあきらめ西日本に集中することにしたのです。

 東日本については、あきらめるもなにも、電車が走っていないのです。論外でしょう。そう決めたとなると、成田から名古屋への空港の変更もすんなり行えました。

 カリはフィンランド政府に勤務する国家公務員でした。私で出会う十数年前にOECDの仕事で日本の金沢、奈良などを訪れ、そこでたちまち日本の魅力に取りつかれてからというもの、毎年のように自費で日本を訪れ日本の祭りの写真を撮り続けていたのです。

 私と出会った日、醍醐寺では太閤花見行列が行われておりちょうどそれが終わった時刻だったのです。私と友達はお祭りがあることさえ知らなかったのですが。

 現在はリタイヤしていますが、この2011年当時、カリはまだ地域開発を担当するミニストリーに勤めていました。職場での休暇の調整も万端整えていたからそう簡単に旅行をあきらめる気にはならなかったのでしょう。

 最終的には祭りのないただの観光旅行になってしまいましたが、旅行自体は無事に終えることができました。

 このときカリが撮ってきた桜の写真は、毎日毎日あの災害の風景を見続けてきた目には、どれだけ美しく、優しく映ったことか。

 カリの職業に触れたついでにいうと、フィンランドの軍隊で演習が公開される日があり、それには政府省庁の公務員の家族も参加できるというので行ってみないかとカリが私を誘ってくれたことがあります。そのとき私はよく意味がつかめず、何か軍隊の行進の練習風景でも見るのかと思ってそのつもりで出かけました。

 ヘルシンキの海沿いに軍専用の島々があって、そこは軍関係者と家族が住んでいます。貸し切りバスでその島につくと演習場に案内されました。

 そこで渡されたのは、ヘルメットと耳を防護するヘッドホン。そのヘルメットの半端でない重さに行進風景のイメージは吹っ飛びました。これは正真正銘の軍事訓練なのです。

 隊員が一部屋一部屋見回って敵がいないかチェックする訓練、それを組み立てられた足場で上のほうから見学します。射撃訓練を経て、最後は野原で大砲射撃。そのすさまじい轟音に、なぜ耳を防御するヘッドホンが必要なのかよくわかりました。

 この公開演習は2013年4月16日のことです。なぜここだけ記憶がはっきりしているかというと、ちょうどその前日にボストンのマラソン大会で爆弾テロがあったからです。

 軍事演習が終わったあと、参加者同士でお茶を飲みながらおしゃべりをしていたとき、カリは自分の同僚を私に紹介してくれました。

 その彼女が「いま夫はボストンにいるの」と言ったので、思わず、「えーっ、ボストンに」と驚いたところ、「そうなのよ」、よくぞ聞いてくだされたと彼女は深くうなづき、

「夫はいまホテルに缶詰めになっていて一歩も外に出られない状態だと電話があったの」 そして笑いながら「とにかく厳戒令がしかれていて、食糧を買いに外に出ることもできないんだって。腹が減ったーって、嘆いていたわ」と言いました。身元が確認されるまではホテルの客も相当厳しくチェックされたようです。

 こういう現実を見たとき、軍事力というものに対する認識について、私も自分の考えが甘かったと言わざるをえません。

 フィンランドの家屋にはすべて核シェルターの設置が義務付けられています。はじめてそれを聞いた時、複雑な思いがしました。正直なところ、核シェルターがあったところで、核爆弾が落とされてしまったらそれが何になろう、というのが私の感想です。たとえ一日二日、あるいは何か月か生き延びたところでどうなるというのか。

 けれどもロシアを隣国にもつフィンランドで、そのような観念論は通用しないでしょう。

 The right of belligerency of the state shall not be recognized.

 フィンランドのみならず、この文言を本気で憲法に採用できる国がヨーロッパにあろうとは思えません。いやヨーロッパのみならず、世界のどの地域においても。

(ブログに続く)


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