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「南京事件」日本人48人の証言

 阿羅健一著 小学館



読まれた方へ、またこれから読まれる方にも


1)朝日新聞記者、山本氏

 山本氏は上海の東亜同文書院を卒業後、徴兵で入隊し、幹部候補生として少尉になり除隊後に大阪朝日新聞に入社された。
 東亜同文書院というのは1901年(明治34年)に清朝時代の中国において上海に設立された日本人のための高等教育機関だという。のちに財団法人霞山会へとつながっていくようであるが、いずれにしろ中国との心情的絆はかなり深いものがあった、いや、現在もあるのであろう。
 思えば明治はまだ清朝の時代だったのである。

 話の中に関東軍の板垣征四郎がマーチャンシャン(馬占山)に会いに行くというエピソードがある。マーチャンシャンは馬賊であった。馬賊という言葉はなぜか人々の心を怪しく駆り立てるものがあるらしい。昔々の上田としこの漫画「フィチンさん」に女馬賊が登場するシーンがあるが、おてんば少女のフイチンさんは「あたいも馬賊になりたい!」と叫んでいる。
 マーチャンシャンは東洋のナポレオンと呼ばれ、一時はこの時の板垣征四郎の説得に応じて関東軍に帰順したものの、のちに日本軍と激しく敵対することになる。にも拘わらず、日本では彼は大人気のヒーローであったという。

 山本氏は最後の最後になって青島に脱出する。脱出列車の警護をするのは蒋介石直属の軍だったという。このあたりの微妙な雰囲気を感覚的に理解するのは、戦争を知らない現代人にとってそう簡単ではない。蒋介石を相手に戦いながら、蒋介石の軍に守られて脱出する。この直属軍は自らの軍や賊から日本人を守るということになる。
 
 この当時、両軍とも正式な宣戦布告をしていない。双方ともが国際的に戦争という定義にあてはめられることを避けていた。言えることは、この時代の戦争はまだ敵の顔が見える時代だったということでもあろうか。孫文をはじめ蒋介石も日本の軍人たちと個人的に密接な関係にあり、その人間的関係性で事態が大きく変わる余地があった。

 だが、上層部の思惑と下部の兵の衝動的行動は離反する。隷下の軍隊の兵士の行動が思わぬ事態を招き、その処理にあたっての紛糾が相互の双方の不信へと発展しもはや後に引けない道へとつながっていく。戦争というのは始めるのはたやすいが終わらせることは難しい。

 山本氏は前線も取材したと言っておられるが、この本の中でたとえ一つの部隊であってもどの位置にいるかによって見るものは全く異なるということを知った。


2)朝日新聞記者、足立氏

 足立氏は第101師団の従軍記者として上海戦線に参加された。上海戦線が一段落してのち南京戦を追う。南京には10日ほど滞在し、その間虐殺なるものは見なかったといわれる。
 しかしながら、足立氏は南京攻略後の14日に南京に入り日本軍が数十人の中国人を機関銃で撃っているのを見てその話を虐殺という言葉で表現し文書に残した。どうやら足立氏はそれを悔いておられるようだ。

 足立氏の話は失礼ながらかなり居心地の悪さを感じる。日本軍が南京城に突入したのは13日、敵は軍服を脱ぎ捨てて逃亡していたとはいえ、翌日の14日はまだ殺気立った戦闘態勢にあったはずだ。そこで無抵抗にさせた数十人の敵を殺しているのを見て虐殺と表現するナイーブさ。それは平和な時代に戻った今だからこそ言えることであって、そもそもこの後どんどん戦火が拡大し、日本の敗戦に至るまでそれどころではない激しい戦いがいくらあったことか。それを経験された世代の方のはずなのに。

 足立氏の歯切れの悪さは氏が朝日新聞の記者であったということにも関係があるのかもしれない。足立氏は本多勝一氏の南京大虐殺の主張に言及され、「先日も朝日新聞の役員に会うことがあったので、言ったのだ。大虐殺はなかったということを。」とあるが、それこそまさにわれわれが不思議に思うところである。
 南京戦には朝日新聞の記者もいた。なぜ彼らに一言も話を聞かないのか。そしてそれこそまさに本書の著者、阿羅健一氏を駆り立てた動機でもあろう。現実に当時の南京を見た人にその目で見たことを聞きたい、その一点である。

 足立氏のナイーブさを示すもうひとつの話。「親を失った幼児が死体のそばで泣いている。気になって後で戻ると幼児はもういなかった。たぶん日本兵が育てているのであろう。」
 この状況下において「日本兵が育てるう?」
 それはまたなんというおとぎ話かと思う。しかし、それを信じたい、うそと知りつつ信じたい、それもわからないではない。
 また誰しも糾弾されていると思えば言い訳のひとつもしたくなる。朝日と比べると毎日はもっと勇ましかった -- 百人斬り競争とか。いっぽう、朝日には敵ながらあっぱれという記事もあった、と。

 ちなみに、敵ながらあっぱれという記事については私の父のもっていた南支従軍写真集の中にもこんな記述があった;
「敵をトーチカに追いつめて迫っていくと、突然トーチカの中からパンパンという音が聞こえてきた。味方の兵士たちは顔を見合わせた。こちらはまだ何も撃ってはいない。まもなくトーチカに入ってその謎を理解した。中国兵士たちは互いに撃ち合って自死していたのである。敵ながらあっぱれであった。」


 浅海一男氏は新聞の組合(労組か)の委員長として中国へ行っているとの記述。組合の委員長がその役職で中国に行くというのがわからない。そして第百師団に従軍した毎日の記者伊藤氏、彼も後に組合の委員長になったとのこと。


3)東京朝日新聞、橋本登美三郎氏

 橋本登美三郎氏といえばかつての政界の大物である。氏が朝日新聞社出身であるとは知らなかった。
 橋本氏は南京戦が始まる前の南京で日に日に激しくなる反日の空気を味わっていたという。当時は中国憲兵が支局を護らねばならぬほどであったとか。こういうとき、敵の憲兵に守られて安心できるものかとふと思ったりする。氏は最終的に前述の山本氏と一緒に脱出列車で浦口から青島に向かう。

 橋本氏は京都師団、すなわち中島今朝吾師団長率いる第16師団についていく。そしてはからずも中島師団長が銃撃を受けて負傷したときにそばにいた。「怪我といってもたいしたことはなかった」とあっさりいう橋本氏の言葉は、のちに出てくる中島師団長に近かった三国直福氏の「中島閣下は自ら前線に立ち、負傷までされた」という言葉とは対照的である。中島今朝吾師団長のみならず、各司令官の人物評は当時の人々の間でも大きく分かれる。


4)東京日日新聞カメラマン、金沢喜雄氏

 南京一番乗りを目指す各部隊、そしてまたその一番乗りのニュースを一番にゲットするために必死に追いかける記者とカメラマン。すでにジャーナリストの中でも死傷者が出ている。まさに戦いの真っ只中であった。

 12月9日の夜明け、光華門で日本軍を待ち構えていた中国軍。しんと静まり返っている中で突然道路わきの街灯が一斉に点火する。金沢氏の語り口から見える光景はまるで映画になりそうな場面である。戦闘の火ぶたが切られ、激しい攻防戦ののち南京城は13日に陥落する。

 ここで金沢氏は12月9日の朝もやの中に南京城が見えた、と説明しておられるのはそれに間違いはないのであろうが、9日に無血開城の勧告を出してから実際の攻撃に入るのは10日だった。インタビューなので言葉がはしょられているのであろう。
 また他の方々への阿羅氏の質問では入城された日付と門の名前が明確になっているのに、この金沢氏の場合は、この描写のあとすぐに「南京城内の様子はどうでした?」という質問になっているので、些細なことではあるが、読者としては少し混乱してしまった。
 確認したところ、江陰攻略が12月2日で、金沢氏はそれを取材したあと、いったん上海に戻り、それから無錫、常州を通って南京に入り、光華門から13日に南京城に入られたのこと。

 金沢氏はこののち維新政府の汪兆銘の写真を撮る仕事もされたようだ。
 蒋介石と汪兆銘。国民党はこのとき、共産軍と対峙しつつ国民党の内部でも分裂していた。日本はその双方の指導者と深いつながりをもつ。そしてまたそれぞれに世界の列国が関与する。共産党はソ連、国民党はドイツ。それぞれがそれぞれの利権を追求する。この関係は武器の供給の流れに現れているに違いない。

 ちなみに汪兆銘の妻は、戦後、罪を問われ、「蒋介石は欧米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、夫である汪兆銘は日本を選んだ、そこにどう違いがあるのか」と反論したという。

 ついでながら、金沢氏が脇坂部隊と一緒に隠れていた場所が「防空学校」とあるが、簡略図では「工兵学校」となっている。これについても阿羅氏にお聞きする機会があり、以下のようなご返事をいただいた。
「地図を見ると、工兵学校も防空学校も見当たりません。脇坂部隊の連隊史に工兵学校が出てきます。金沢さんが言っている防空学校は工兵学校のことと思われます。地図にないので、正確な名前はわからず、当時はそう言っていたのだと思います。工兵は戦場で橋を架けたり鉄道を敷いたりするのが任務です。やや地味ですが、あのマッカーサーは工兵出身です。工兵学校はそれを学ぶための学校と思われます。」



5)東京日日新聞、佐藤振寿カメラマン

 中国の古美術を「10割引きで買ってきた」とは、おやおや、こんなところで大宅壮一氏のよからぬ行いが露見。しかし、南京の荒廃ぶりがよく想像できる。
 日本兵の入城直後にすでに難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて日本兵が10銭払って食べていたとの記述。後の岡田氏の話では軍票は受け取りを渋られたというが、コインは通用したということか。

 写真が与える印象の多様性については、写真家である佐藤氏ご自身が自らの写真を例にして指摘されている。写真はキャプション次第でなんとでも捉えられると。本多勝一氏が引用された写真がまさに真逆の印象操作に使われていたのである。

 100人斬りというものが、現実として「そんなことをやっておられる状況かあ」と思いつつ、それをご本人たちが自ら語ったことには間違いあるまい。まあ一本と、ルビークインなどもらえば口も軽くなり、話はやっぱり面白くしなくちゃ、という気持ちになるのはごく自然である。話を聞く側もそれを承知で聞いている、と、思う、と思っていたが、世の中には冗談の通じない人が山ほどいることを思い知らされる。
 中国人だって、いやどの国民だって、当時の戦争であれば、今日は敵の首を100人とってやる、ぐらいのことは誰でも口にしていたと思うのである。それにしてもこの結末はあまりにもつらい。せっかく生き延びて帰ってこられたのに、なんという無残なことかと思う。


Wikipediaより抜粋
一 日本国民に告ぐ
 私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。
 只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。
再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。
 たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。
 東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。
 今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。
 中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。
 至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。
 西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。
 愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。
 猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。
日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。
 此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。
 桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。


死刑に臨みての辞世
 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部各位、蒋主席の方々を煩はしましたる事に就き厚く御礼申し上げます。
 只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京屠殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜はりましたる事に就ては天なりと観じ命なりと諦めて、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以つて残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代へられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みをはらさんがため、一方的裁判をしたりされない様に祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携の基礎となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様に、それだけを祈願致します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 野田毅


辞世
 我は天地神明に誓ひ捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思ひ日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸です。
中国の御奮闘を祈る
日本の敢闘を祈る
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります
十二月三十一日 十時記す 向井敏明

 自らの死をもってして両国の絆を贖うと、まさに血の叫びである。だが、お二人の思いはいまだ中国には届かない。


6)大阪毎日新聞、五島広作記者

 五島氏は従軍記者として第6師団に従ったとのこと。第6師団は第十軍の隷下とある。軍隊というものはしょっちゅう編成が変わるのかと、軍隊を知っている人なら当たり前のことなのであろうが、無知なものにとっては不思議な気がする。しかし、戦略上、軍隊の編成のフレキシビリティは当然なのであろう。

 五島氏は第6師団の谷師団長に目をかけられ作戦会議にも参加させてもらっていたというから、師団長への思いには熱いものがあろう。ましてや谷中将の処刑にはさぞや無念な思いをされたことであろう。

 このときパラマウントのアーサー・メンケン氏が南京を撮影しており、その中に五島氏も映っているという。氏はまさしくそこにおられたのである。


7)東京日日新聞 鈴木二郎記者

 「私はあの南京の悲劇を目撃した」の論争がどのようなものであったか知らないが、ここでは鈴木氏が目撃した殺傷の話を阿羅氏がひとつずつ確認しておられる。阿羅氏はおそらく鈴木氏の記憶の信頼性を確認したいと思っておられたのであろう。それゆえに南京入城の日付についてもしつこく食い下がっていったのだと思われる。

 さて、鈴木氏は自らが目撃した事柄を虐殺と考えておられるのか。そしてそれを公にしたことは贖罪の意識であろうか。氏は100人斬りの最後の記事にも関わった。
「逃げる兵は斬らないと言っていたのにだまして切ったと語ったと聞いて裏切られた思いをしました。」といわれるが、それは苦しい言い訳に聞こえる。

 イギリスの検事には虐殺ではないと証言し、自分ができることはすべてやった、と鈴木氏は言われる。
 向井少尉はあの記事で再婚できたし、野田少尉も有名になれた。鈴木氏はおそらくそう考えるようにして胸の痛みを抑えておられたのであろうと思う。
 また実際、この裁判自体がそのような根拠薄弱な記事をもって起訴されている以上、裁判が裁判として機能しておらず、いかなる合理的説明をもってしても覆されるものではなかったろう。
 お二方はそれを承知の上で、日中友好の人柱として、男らしく死を受け入れられた。
 血の叫びを残して。
 

8)読売新聞、二村次郎カメラマン 

 同じ日本人であったとしても戦場での取材となると他社の記者は競争相手となる。その競争はかなり熾烈であったろう。記者やカメラマンにとって取材した記事や写真を上海本部に届けることは死活問題であり、そのためにはあらゆる手段を駆使しなければならなかった。
 そうなると、写真を届けるために配備した自社の車には、たったいままで生死を共にしたとはいえ、商売敵を乗せるわけにはいかない。戦争の高揚感にそのような競争意識が伴えば、倫理や大義とはまったく別の観点から、文字通り血沸き肉躍る日々であったろう。
 ついでながら、そうか、当時は伝書バトの係までいたのか。軍馬や軍用犬はお馴染みとして、この従軍鳩が実際どの程度役に立ったのか興味深い。

 二村氏は大分生まれということもあり、たまたま一緒になった大分の第四七連隊についていくことにする。その四七連隊は、「コレラが発生したためしばらく嘉善に留まっていたはず」と阿羅氏は二村氏の記憶を促しておられる。阿羅氏は連隊日誌を克明に読み込まれているのだろう。

「上海に戻ってから杭州に行きました。年が明けて一月か二月頃、津浦線に行くためまた南京に行っています」
 津浦線に行くためにまた南京に行った ― これは一体どういう意味かと思ったが、お聞きすると、この津浦線というのは鉄道で、南京の揚子江左岸にある浦口(ほこう・ここも南京市の一部)と天津を結ぶ線路だという。20世紀に入ってイギリスやドイツの援助によって作られたそうで、これにより北支(北京・天津)と中支(南京・上海)が結ばれるようになった重要な線路である。その中間に徐州があり、昭和十三年初夏、北支の日本軍と中支の日本軍が津浦線に沿って徐州に向かい、攻略した。
 二村氏はこの徐州作戦の取材で津浦線に赴いたが、作戦が進まないので四月一日には東京に戻っていた、ということのようだ。

 福岡日々新聞のカメラマンが、中国兵の鉄兜をかぶっていたため、間違えられて日本兵に撃たれた。
 敵の鉄兜をかぶるなんて、なぜそのようなことを、と、実際の戦場など見たこともない私ですら思う。自分は日本人だから日本兵に撃たれるわけがない、と「ふと」思ってしまわれたのか。

 レマルクの小説「西部戦線異状なし」では、鍛えられて一人前の兵士になった青年が、「ふと」目にした蝶に引き付けられ、塹壕から身を出して撃たれてしまう。戦場で「ふと」平時の正気に戻ったとき、それは死を意味する。

 普段は滅多に許されることではないが、二村カメラマンは軍司令官、松井石根大将の傍に近づいて写真をとることができた。緊張のあまり体がふるえたという。当時の人々にとって総大将というのは無条件に畏敬の的であったに違いない。


9)報知新聞、田口利介記者

 新聞社には当時から記者クラブというものがあったようで、メンバーたちの帰属意識はかなり強かったようだ。海軍省詰めの記者クラブが黒潮会。田口氏はその記者クラブから報知新聞の代表として上海に赴く。

 氏は十六師団を追っていくが、司令部ではなく中隊あたりと一緒に進んだという。軍隊組織についての無知ゆえに中隊というのは単に部隊の大きさのことかと思っていた。先頭部隊についていくのは簡単ではなくせいぜい中隊まで、ということは中隊というのは配置をも含む編隊のことらしい。

 衆議院の慰問団が朝香宮様に献上した酒を長中佐参謀が「苦労しらずの宮様より記者に飲ませてやる」といって、夜、宿舎にやってきた。この記述からすると軍の下部組織を実質的に取り仕切っていたのは長参謀であったといえなくもない。
 そもそも、一般的感覚として、宮様が司令官になられたとしても実際に軍の采配を仕切っておられたとは思えず、それはやはりシンボル的な意味合いが大きかったのではなかろうか。捕虜の殺戮に宮様が関わっていたかのようなドイツ映画が作られたと聞いたが、それはとうてい考えられない。松井大将の訓示は朝香宮殿下も隷下の部隊の長としてお聞きになっていたのである。

 田口氏は1943年にハルビンに行き、特務機関の仕事についたとのこと。のちにシベリア抑留となり帰国したのは戦後五年もたってやっと帰国されたという。帰国が遅れたのは氏の経歴のせいかもしれないと思ったりする。


10)読売新聞、樋口哲雄撮影技師

 樋口氏は大東亜戦争の開戦後、交換船に乗ってアフリカのローレンスマルケスに行ったという。当時ローレンスマルケスというところは日米英の交換船の交換地点に指定されていたらしい。
 先日の放送で、ジャーナリストの木村太郎氏もニューヨークで銀行員をしていた父とともに開戦時アメリカに滞在しており、その交換船で日本に帰国したということを聞いた。
 アメリカからの交換船には若き日の知識人たちも乗っていた。そして日本からはカナダ人のハーバート・ノーマンも交換船で帰国している。ハーバート・ノーマンという人は国と国との狭間で深い闇に入り込み、最後はレッドパージに巻き込まれ非業の死を遂げた。まことに不可解な人である。いわゆるノーマン・ファイルにあるというWar Guilt Information Program:WGIP、これは共産主義者の使う洗脳テクニックを取り入れたものだという。そんなところにまで関わっていたということを知って、ますますわけがわからない。

 樋口氏も当然のことながらいろいろご苦労されたと思う。ただ想像に過ぎないが、氏の場合はどこかしなやかに時代を乗り切ってこられたようにも思える。南京でも赤線地帯ではめをはずしておられたとのこと。
 同様に、作家の胡桃沢耕史氏や俳優の池辺良氏など、とてつもない経験をされたにも関わらず、状況を観察し表現する能力をもつ人々には不条理を不条理のまま受け入れる力も備わっているのかもしれない。


 胡桃沢耕史氏は、敗戦後、モンゴルの収容所に送られ、過酷な生活を強いられながらも芸と知恵を駆使して生き延び、日本に帰還する直前にシベリアに送られる。そこで洗脳教育を受けさせられ、
「資本主義は敵だ!」などというシュプレヒコールのあとに
「そうだ!」
と、大声で呼応するよう強制されるくだりがある。
胡桃沢氏は、延々と続くその儀式に馬鹿々々しくなり、心の中で
「そうおだ、そうおだ、まったくだあ」
と、民謡の合いの手を付け加えていた、というので思わず吹き出してしまった。(黒パン俘虜記)


 池辺良氏は、新聞連載でご自身が経験された軍隊生活のことを書いておられたが、おそらくその時のエピソードのひとつだったと思う。出征前は大学生だったというひとりの兵士が毎日の軍隊生活で文字に飢え、手元にあった薬瓶の説明書を繰り返し繰り返し読んでいたという。これは活字中毒者にはものすごく実感がある。


11)読売新聞、森博カメラマン

 朝日新聞、都新聞では一日15円、毎日新聞では13円の従軍手当がついたという。読売新聞は従軍手当はつかないが、本社にもどると社長の正力松太郎が直々に500円のボーナスを手渡してくれたという。社長は記者の見送りにも出たというから記者たちはさぞ張り切ったことであろう。戦時中のこのようなディテールはまことに興味深い。

 森氏は戦後の東京裁判でGHQを代表してフィルムを回したという。GHQは多くの人々を公職追放にしてしまったが、技術者は必要だったのであろう。


12)同盟通信、新井正義記者

 南京城攻略後もしばらくは戦闘が続き、朝香宮殿下まで襲われるといった状況であった。宮様をお訪ねすると、「ゆうべえらい目にあいました」とおっしゃったとのこと。
 この時期、兵士たちの緊張状態はまだ続いていたであろう。

 南京の首都防衛軍は20万から25万、柳川軍は5万で日本軍は合計10万、計算からすると敗残兵は16万ぐらいか、との当時の氏の推計。

 重い無電機器はロバで運んだ。無電機を載せてとことこ進む従軍ロバの姿が目に浮かぶ。

 城に残っていたのは貧しい人々だけだったそうだが、話からすると彼らはけっこう戦争慣れしていたように思える。日本軍に使われる中国人もおり、早々と菓子や麺を売る人々も出ていた。それはそれでたくましいと感心する。


13)同盟通信 浅井達三氏

 メトロトーン・ニュース社におられた浅井氏は戦後奇しくも東京裁判を撮影する仕事に携わることになる。他の写真家と少し異なり、外国の会社におられたせいか外国人との付き合いもかなりあったようだ。
 パネー号事件に際しそれに乗船していた外国人記者が上海に行きたいと同盟に頼みにきたという。この外国人記者というのは砲艦勢多の寺崎氏のところで触れられている「南京に取り残された外人記者」のことであろうか。そこでは砲艦勢多が引き受けたというニューヨークタイムズの記事があると阿羅氏が述べておられるが、勢多の艦長は否定している。それにしても日本軍が残酷だと繰り返し喧伝してきたアメリカの記者がその残酷な日本軍に助けを求めたわけだ。

 南京に行く途中、兵士たちが金庫の中の中国紙幣を焚き付けにして飯盒炊爨をしていたという。それは共同租界にもっていけば通用する紙幣だったらしいが、死を目前にした兵士にとっては無意味なものだったのだろう。

 浅井氏はまたパラマウントのカメラマン、アーサ・メンケンとも個人的に親しかったとのこと。また戦後も中国との関係が深かったというところからか、東京裁判の視点もいささか日本側に厳しく、最高責任者であった松井大将の判決は当然だと思うと述べられている。

 しかし、氏はご自身では虐殺を見ていないし、アーサー・メンケン氏からもそんな話は聞いていないと言われている。松井大将の起訴は虐殺が訴因ということになっているのだから、それを否定しておられる氏が判決を当然と思われるのは不思議な気もする。


14)同盟通信 細波孝無電技師

 無電技師というお立場であれば、おそらく重要な戦略も多々打電されたことであろう。
 氏が目撃された湯山の捕虜はお粥のようなものを食べていたという。のちに南京に入って捕虜の移動だというので見に行ったら、八列縦隊で何グループがぞろぞろ歩いていたという。氏はそれを湯山の捕虜の一部だと推測しておられる。ただ、殺戮を直接見たのは一部であり、あとは推測である。とはいえ、じつに率直に、できれば聞きたくないようなことも話されている。

 捕虜の殺害には忸怩たる思いをした上官もいたのではないかと推察される。だからこそ南京虐殺と言われたときに、これをもってして松井大将の死刑やむなしと合理化し受け入れる人もいたのであろう。折につけ軍紀を正し経を唱えていたとされる松井大将にも、南京事件の有無とは関係なく、お覚悟はあったであろう。


 捕虜の殺害といわれるものは、前線の兵にしてみればそれは戦闘の続きにすぎない。敵が逃げ散ってしまえばそれまでだが、降参されたところでそのような膨大な捕虜をどうすればよいのか。離せばまた敵兵になってしまう。捕虜という概念は圧倒的優位に立っているときにのみ確立しうるものであり、氏が目撃された光景は南京陥落後数日しか経っていない時のことである。南京城を陥落させたとはいえ日本軍はまだ戦闘中との認識であったに違いない。
 
 インターネットの討論会で水間政憲氏がこの南京に関し捕虜が解放されている写真があると示されていたが(皮肉にもそれは朝日新聞の写真である)、それも本当のことであろう。殺された捕虜もいるし解放された捕虜もいる。戦争の側面はとても単純な説明で捉えられるものではない。

 

水間氏のウエブから勝手に借用いたしました。「蒋介石に見せたい風景」が、ここでは「習近平に見せたい写真」となっておりますが。

15)新愛知新聞 南正義記者

 13日に南京に入城したとき、南氏はプラタナスの木に吊るされた日本兵の死体に遭遇する。南京虐殺では中国側の犠牲者が問題になるわけであるが上海戦からずっと日本兵にもかなりの犠牲者が出ていたはずである。報道関係者は中国兵、日本兵を問わず、死体の写真は撮るなと軍に指示されている。私たちは死体を見ずに、あるいは意図的に示された死体しか見ずに、戦争を語るのである。

 インタビュー当時、氏は東海ラジオの社長を務めておられた。そして様々な思いがあるにせよ、南京市と姉妹都市となった名古屋の代表の一人として友好に向け努力された。もしその友好関係が続いておれば両国にとってどれほど有益であったことか。

 「南京市長をはじめ、そもそも南京では誰も南京事件のことを言っていない。もしありもしない南京事件を言うようなら自分も言う。当時の南京は今の南京市長より自分のほうがよく知っているのだから。」
 日中友好のためには益なし、と、南氏は証言の公表を当時は見合わせられたのだが。


16)福岡日日新聞 三苫幹之介記者

 当時、地方新聞もまた戦時速報を伝えるべく戦地に記者を送っていた。派遣された記者は当然ながら同じ方言を語る地元出身の師団に身内意識をもち、機会があればその師団につくことになる。氏の場合は久留米18師団。

 「英艦をやっつけてやった」と高言する隊長の話を聞いたとのこと。してみるとレディバード号は誤射ではなかったことになる。ただ、状況からして上からの命令があったとはとても思えない。戦争とは上層部の思惑とは違うところで発展していく。それをおさめる外交術は戦力に勝るとも劣らない重要性をもつ。

 雇った中国人夫妻のインタビューの中で「何でも水西門付近では十一人の日本兵のため三千人もの支那軍が捕虜になったそうです」との記述がある。いくらなんでもそんなことはあり得ないだろうが、降伏者の数が日本兵の手にあまるほど多かったであろうとは推測される。

「難民に当時を聴く、恐怖の拉夫、拉婦、目に余る中央軍の暴虐」の見出しで始まるこのインタビュー。
 この見出しに出てくる中央軍というのは、国民党軍のなかで蒋介石の指令が行きわたる部隊のことで、精強な部隊として知られていたという。蒋介石に次ぐ将軍が指揮する部隊もたくさんあり、これらの部隊では蒋介石の指令がそのまま行き渡るというわけではなかった。
 日本人の乗った脱出列車を護衛したのもこの中央軍だったかもしれないが、それにしてもそのような精鋭隊にも拘わらず、あまりモラルは高くなかったようだ。

 中国兵は藍染の軍服だった。日本兵は茶色。他の記者の証言の中で、南京落城時、中国兵はこの藍染の軍服をあちこちに脱ぎ散らかしていたという。逃げようとするならそれは当然であろう。一目瞭然なのだから。


17)都新聞 小池秋羊記者

 日本無産党の加藤勘十氏を含め代議士慰問団が戦線を訪れるが、一時間で逃げ帰ったと。物見遊山じゃあるまいし、そもそもそんなところで記念写真を撮ろうというのだから神経を疑う。
 別の証言の中でも、高田保氏や坂東三津五郎氏なども着いた翌日逃げ帰ったという。兵士たちはおそらく娯楽に飢えていただろうから役者などの慰問は有難かったかもしれないが、代議士などに来てもらって喜んだはずがない。かれらは自分たちの宣伝のために来たのだろう。

 中島師団長は貫通銃創をうけながら陣頭指揮をしていた。小池氏は初めて会ったときやさしいお爺さんといった印象を受けたとのこと。ここでもまた司令官の人物評は異なる。

 小池氏によれば南京には25万から30万の中国軍がいたが、このころ5万を残して下関から退いたと言われていたとのこと。残っていた中国兵が5万というのは前述の新井氏の推測による敗残兵16万とはかなりの差がある。もっとも、新井氏の推測の敗残兵16万とは諸方に散らばっていた中国兵を含めてのことか。

 軍は南京城に入るまで馬群鎮というところで三、四日おり、その間に気球があげられ、攻城砲の射程を測っていたとのこと。また降伏勧告の伝単もまかれた。
 伝単などという言葉は初めて聞いたが、戦時にはこのような戦意喪失を促す宣伝ビラ「伝単」は馴染みある言葉だったようだ。ウィキペディアによれば語源は中国語だという。気球はこの伝単をばら撒くためにも使われたらしい。伝単には挿絵が入ったものもあり、現代ではどうやらコレクターもいるらしい。

 小池氏は図らずもニューヨークタイムズのダーディン記者と遭遇し、敵地に乗り込むその勇気に感動したという。反日記事を次々と発表する外国人記者にそういう感情をもてるというのはすごい。

 中国に有利なようにとか日本に有利なようにという気持ちは私にはない、と言われる氏はどこか超越したところをお持ちのようだ。それはたとえば氏の仏像に対する憧憬の念などによって昇華されたものか。

 軍には師団付きの従軍僧もいたらしい。従軍作家、従軍画家、そして西城八十などは従軍詩人とでもいうのだろうか。

(なお、本文に「昭和十三年、社会次長の時、塚本政治部次長、吉野カメラマンと共に上海・南京戦に従軍した。」とあるが、これは明らかに昭和十二年の間違いですね。確認済み。)



18)福島民報  箭内正五郎記者

 九州の地方紙と同様、福島の地方紙も戦線のニュース報道に対し並みの地方紙以上の力を注いでいた。
 そしてその郷土の65師団が南京虐殺の疑いを受ける。その原因のひとつとして郷土記者の記事も関わっていると思われる。秦賢助氏の「捕虜の血にまみれた白虎部隊」である。
 これは南京戦の生存者によって反証されたというものの、話は根強く生き残ってしまった。

 65連隊は上海戦で相当な打撃を受けた。補充はされたものの定員割れだった。その定員割れの中で、先頭を進んでいた一部が捕虜を捉えた。たとえば千人の日本兵で万を超える中国兵を捕らえられるものか。そんなことが可能なはずはない、と、これは前述の残存兵の推計からすると説得力がある気がする。ただ、いずれにしろ、大戦争においては兵士の数も犠牲者の数も決して正確にはとらえきれないということを思い知らされる。

 箭内氏は、65連隊は上海戦で最も多くの死傷者を出したのではないかと考えておられる。65連隊の両角連隊長は部下に慕われ、連隊長のためならと自ら命を捨てていった。
 「戦場では人間は単純になるものです。」という氏の言葉はあっけないほど短い言葉だが、本質をついているのかもしれない。
 死を目前にした戦場においては一瞬一瞬に生が凝縮され、連隊長との一体感に包まれる。
 「兵隊を助けたいのなら、兵隊に憎まれなくては」、連隊長はそう嘆いたという。

 箭内氏は南京よりむしろ上海での戦死体のほうが印象が強いという。後にも第19師団で戦争掃除という言葉が出てくるが、かれらは同胞の死体を畑の中に打ち捨てたまま上海から南京に赴かねばならなかったのである。

 12月20日、65連隊は下関から船に乗る。このとき、いくつかの桟橋の中で少なくとも氏が乗船した桟橋には死体は見られなかったという。


19)第十軍参謀  吉永朴氏

 参謀という立場であれば、決定的な判断の場にも立ち会われたことであろう。南京虐殺については初めて阿羅氏よりインタビューの申し込みを受けたと言われる。つまり、それまで誰も氏に話を聞かなかったわけである。ただ阿羅氏のインタビューの前に別の誰かのインタビューを受け、それが意図に反した使われ方をしたため、阿羅氏に対しても当初懐疑的になっていたとのこと。この阿羅氏の前のインタビュアーとは誰であろうか。その内容も聞いてみたいものである。

 しかし、参謀というのは実に様々な役目があるようだ。食料や物資の調達をはじめ、司令官本部の設営、市民との交渉、さらには性の問題まで処理しなければならない、いわば高度な雑用係といえるかもしれない。

 儲備銀行に行く途中、身なりいやしからぬ中国人の家族に会い、通行証として氏は自分の名刺を渡しておいたとの記述。この当時、一般の中国市民の人々が中国人だからといってやみくもに国民軍を支持していたとも思えず、そもそも中国というひとつのまとまった国家観をもっていたかも疑わしい。彼らの目にはただ二つの軍が戦っている、戦いが終われば勝ったほうとできるだけうまくやっていく、ぐらいの感覚で、その術は古来から会得していたのではなかろうか。だからこそきちんと身なりを整えたその家族の長は - おそらく弁髪であったと思われるが - そういう状況の中でも日本軍に挨拶できるだけの気概をもっていたのではないか、と、これは想像にすぎないが。

 柳川将軍は中国を愛された方だった、と氏は言われる。柳川将軍のみならず、当時ある程度の教養をもつ日本人は中国の文化に対し相応の敬意をもっていたであろうことは容易に想像しうる。漢詩の嗜みは古来からの伝統でもあった。


20)特務部員  岡田酉次氏

 軍の機能のひとつとして岡田氏の任務は高度に実務的なものであった。それは来るべき中国政府との経済関係をも包括する計画であったであろう。経済工作である。しかし、この時点では当面の課題とする軍票は失敗に終わったようだ。紙幣というのはすべて信用に裏付けられてこそ機能する。

 しかし、そうか、児玉誉士夫という人の名がここで出てくるのか、と改めて知った。

 南京虐殺のことについても岡田氏の目は現実的である。中国を知り、中国の友人をもつ氏によれば、中国は自国のことは絶対悪く言わない、日本側がそうではないといくら言い張ったとしても中国側は絶対認めない、と。
 中国は自国のことは絶対悪く言わない、だが、日本は?

 「とにかく、事実を何処までも追求すればよい、さすれば後世の人が正しく判断してくれよう」
 氏はそう言われる - が。


21)上海派遣軍参謀 大西一氏

 大西氏のお話はまことに具体的でひとつひとつ興味深い。
 中島師団長に対する人物評価は少々厳しいようだ。戦場で指輪はないだろう、と、それは当時の一般的な男性なら普通の感覚であったかもしれない。

 本多勝一氏の「中国の旅」に憤り、抗議したにもかかわらず、今度は日本人の側から虐殺があったと言い出すものが現れた。それはその人たちにとっては虐殺と見えるものだったかもしれない。しかし大西氏にとっては耐えがたい思いだったであろう。真実を知っている自分こそ本当のことを書くべきだと筆をとったが、今更書いても遅い、言い訳としかとらえられない、と身内に言われ、断念された。
 身近な人に否定されるのはおつらかったであろう。「いまさら」と、私なども若いころはこういう場合よく口にしていたから、身がすくむ気がする。

 第9師団の参謀長は、自分たちは上海の戦場掃除をしたいので南京の警備は御免していただきたい、と上海に向かった。上海では日本軍の犠牲者も多大な数に上り、その遺体を片付けるひまもなく南京に進んだのである。このときの師団の兵にとっては南京攻撃よりも上海戦の激烈さが意識に鮮烈に残っていたはずだ。結局南京の警備は第16師団に任される。

 慰霊祭は全軍の犠牲者に対しての慰霊、そして中国軍の犠牲者に対しての慰霊もなされていた。これは日本人なら違和感を感じる人はそういないであろう。


22)松井軍司令官付 岡田尚氏

 司令官とは個人的に親しかった岡田氏であれば、司令官に対しての思いは人一倍強かったであろう。

 松井司令官は朝香宮殿下を含めすべての師団長に対し軍紀をを戒めていたとのこと。蒋介石とも親しかった司令官であってみれば戦後の中国との友好的関係について期するところも大きかったのであろう。

 ここでも触れられているが、上海とその後の戦いで日本軍は想像もできないほどやられ、兵士たちは殺気立っていた。その兵士たちの異常な興奮を司令官は恐れたのであろう。
 上海を出て、出会う中国兵をどんどん殺(や)って南京に到達しなければならない、兵士たちの頭にはそれしかなかった。中国兵に出会えば戦闘になる。また、この行軍中に追い越してきた中国兵もいたので、後から来る中国兵からも襲われる可能性があった。いつ、どこで、中国兵に襲われるかわからない状態で、意識は常に戦闘態勢にある。上海戦から続く状況とこのような精神状態の中で、捕虜という概念、あるいはその余裕は、日本側にも、そして中国側にも、あったとは思えない。

 岡田氏が城内に入ったとき、中には軍服、ゲートル、帽子が散乱していた。中国兵はゲートルを使って城壁から逃げた。後述の証言で、城壁にロープがぶら下がっていたという方もおられたが、ゲートルのことだったのだろう。

 死体はどのくらいあったかと問われ、正確に答えられる人はそういないだろう。その数は見る人によって大きく異なるのに、いったん発表されるとその数字だけが一人歩きしてしまう。

 松井大将は真崎大将と仲が悪かった。柳川軍司令官は真崎大将の系列であり、その流れで松井大将と柳川司令官もそりが合わなかった。二二六事件はたった一年前の1936年の出来事である。軍内にしこりは残っていただろう。

 戦後、東京裁判で南京事件がもちだされ、岡田氏は「本当にびっくりしました。死刑なんて想像もしませんでした。東京裁判の被告全員がどんな判決になるのかわかりませんでしたけど、結局、松井大将は訴因が一つでしょう」と述べられている。
 訴因はひとつだけ、それが南京事件だった。どんな判決になるのかわからなかった、というより、何に対して起訴されるのかわからなかった、というのが東京裁判だったのではないか。

 岡田氏は孫文の革命を助けた山田純三郎氏を通じ蒋介石に助けを求めたが、蒋介石は「日本の代表としてだから仕方がない」と突っぱねたという。代表の責任というのなら、そういうおたくはどうなのよ、とつい心の中でつぶやいてしまう。

 松井大将の側にいた人々の中に、国際法関係者や通訳官、軍医とともに車主計大尉などがいたという記述。軍事にうといものだから「主計大尉」というのが階級であることに気づかず、車主計という大尉の人のお名前だと思っていた。軍事用語とはまことに多彩なものである。


23)第十軍参謀 谷田勇氏

 谷田中佐は杭州湾に向かう軍艦五十鈴の上で大佐進級の無線電信を受けたとのこと。後述の三国直福氏は通信筒で進級を知らされた。進級というのは戦が終わってから決まるものだと思っていたが、戦のさ中にこのようにして与えられていくのか。

 戦場における補給確保の苦労がしのばれる。遠浅の杭州湾での重車両の陸揚げは無理と判断し、上海にいる上海派遣軍に頼み上海の南市を第十軍に譲ってもらった、とある。南市というのは現在存在していないようだが、ここに港があったのであろうと推測した。

 統制派と皇道派、共に敵と戦う身でありながら、派閥における観念的紛争は折に触れ現れているようで、上層部の人間はさすがに節度ある態度を保っていたであろうが、下にいくにつれ贔屓の引き倒し的所業が出てしまうようだ。入城式の柳川将軍の写真も将軍の顔面を引きかいて発表された、というのもその類であろう。

 谷田氏は軍の中で異端視された田中隆吉氏と親交を保っていたという。初めて知ったが、ああ、あの男装の麗人、川島芳子は、この田中氏との関係から生まれたヒロインであったのか。私の母親の世代の人々は真偽入り交じりの彼女のストーリーに精通していたはずだ。

 谷田氏は17日の入城式が終わって19日にはすでに杭州平定のために南京を離れている。戦いは継続中だったのである。攻略に成功した南京城内には氏の記録では約8、000の兵が残ったという。

 第16師団は京都師団であった、ゆえに弱かった、と氏は自らの見解を押し通される。弱い師団は問題を起こしがちだ。師団長の中島今朝吾中将は長くフランスに駐在しハイカラな軍人だったから捕虜の虐殺などという処置をとるとは思えないが、他面、抑える力も強くなかったであろう、と。

 1938年以降、日本政府は上海に日中合弁の国策会社を設置し、鉄道、船舶、通信、国土開発、電気、水道事業の経営にあたらせた。後方担当の第三課の谷田氏は南京帰還後、その経済指導に携わり寸暇もないほど多忙であったとのこと。参謀という仕事の幅広さがうかがわれる。


24)第十軍参謀 金子倫介氏

 前述の谷田氏もそうであるが、後方担当の若き金子氏も目の回るような忙しさだったようだ。第十軍は南京に入ってもすでに杭州への転進業務があり、二日もしないうちにすぐ南京を出発した。ということからもわかるように、南京に残る警備隊を除いては軍の移動日程はかなり詰まっていたようだ。

 杭州湾上陸点で、金子氏は新しい軍服を着た日本兵の戦死体がきちんと並べて寝かせられているのを見たといわれる。前述の谷田氏によれば軍はいったん杭州湾に上陸したものの重機の陸揚げが難しいことからそこを引き上げて上海に向かったとのこと。金子氏が見たのはそのときのことであろう。このときには戦死者を弔う余裕があったということか。

 後方担当であるがゆえに杭州では慰安婦の手配もした。請負人と交渉し、金額の上限を決めた、たしか50銭だと思う、とのこと。前述の岡田氏の記憶では南京で早々と店を開いていたラーメン屋のラーメンが10銭。ともあれ兵隊同士の喧嘩などは少なくなったらしい。

 金子氏は1941年にアメリカ駐在を命ぜられ、1942年にこれまた交換船で日本に帰ってこられた。


25)企画院事務官 岡田芳政氏

 超エリートであった氏は今もなお中国との結びつきの強い生活を送っておられる。戦時中はおそらく種々巧妙な作戦に携われたことであろう。

 1935年の秋、南京にいた岡田氏は蒋介石50歳の誕生日のお祝いが南京で盛大に行われていたのを目撃されている。とはいえ、国民政府の首都たるその南京を、当時蒋介石や汪兆銘が懸命に首都として発展させようとしていたにも拘わらず、人々の営みと関心は依然として上海にあった。
 その時にはまだ蒋介石と汪兆銘はまだ決裂していなかったわけだ。
 それにしても、この汪兆銘という人もなんという波乱の一生を送ったことか。

 南京で虐殺があったということは聞いたことがない、ただの一度もない。南京事件とは中国の宣伝だと言い切る岡田氏。
 同時に、日本は中国の宣伝戦に負けたのだ、負けを認めること、と、岡田氏は言われる。数字の議論など愚の骨頂だと。
 氏はひたすら現在の日中友好をいかに保つかに専念されておられるようだ。


26)参謀本部庶務課長 諌山春樹氏

 諌山氏はジュネーブ軍縮会議の時にパリにおられたとのこと。そのような国際会議であれば庶務課長はさぞ多忙であったに違いない。それは第一次世界大戦のことであった。歴史にはいかに多くの断面があることか。

 参謀本部庶務課で受ける報告は電報などを含め主務課に渡す分と関係課に渡す分を同時にガリ版で刷り、それを配布していた。
 ガリ版は昭和二十四年生まれの私も小学生のころからいやというほど「切って」きた。1枚の謄写版でなんとか一学級50人分のコピーをつくるのであるが、ときには最後の数枚になって謄写版がボロボロにちぎれてしまい情けない思いをしたものだ。「切る」というのは鉄筆で「書く」ことであるから、人数分刷れなかった場合にはまた書き直さねばならない。軍隊にもおそらくガリ版切りの専任者がいたことであろう。いずれにしろ報告書はすべてコピーされていた。

 氏は終戦時、台湾軍の参謀長をやっていて、引き揚げが終わったとき、B29搭乗員処刑の件でアメリカの裁判にかけられ終身刑となった。これは日本に引き揚げ、本土で戦ったということか。
 アメリカの裁判にかけられて上海で服役というのもよくわからないが、最後はけっきょく他の戦犯の人々とともに巣鴨に移された。


27)陸軍省軍務局軍事課編成班 大槻章氏

 大槻氏は1937年の暮れ、つまり南京陥落後に南京を訪れる。記憶は定かではないが兵站旅館に泊まったとのこと。兵站旅館あるいは兵站宿舎というものがあったらしい。

 そのあと杭州へ行き、第十軍司令部に行く。杭州に行った途端に大雪になって飛行機をはじめ交通機関が何も動かなくなった。杭州は夏は暑いが冬はマイナスにもなるようだ。


28)野砲兵第22連隊長 三国直福氏

 司令官に近しく接していた人は他の人々より敬愛の念が深くなるのも当然であろう。三国氏による中島団長のプロフィールにはそれがよく表れている。持病の痔のことにまで気遣ってもらって三国氏は感激する。

 三国氏は当時治療中で南京戦には参加されなかったようだ。氏が第16師団に追いついたのは翌年の1938年1月15日。それから7月に名古屋に行って8月にまた南京に戻る。この時にはすでに日本の商人もたくさん来ていたという。なぜか長崎の人が多かったとのことで、同郷のよしみというのは当時は非常に強かったのかもしれない。

 三国氏は二、二六事件のとき、戒厳司令部の参謀をされていたという。上に立っていたのが中島今朝吾憲兵司令官。
「宇垣首班阻止に中島さんが行っています」とは、組閣を阻止するために、宇垣一成大将の車を止め、乗り込んでその脇腹に銃口を突き付けたというドラマのような話。軍内の争いにはすさまじいものがあった。

 徐州の戦いのあと、通信筒が投下され、そこには第15師団参謀長を命ず、と記されてあったとのこと。こういう通信筒というのはどういう状態で投下するのか、うまく拾えるようになっているのかちょっと気になったりする。

 三国氏は終戦をハノイで迎え、広東の監獄、上海の監獄、そして巣鴨の監獄を経て自由の身となられた。長い道のりであったことであろう。


29)砲艦勢多艦長 寺崎隆治氏

 寺崎氏のお話から想像する砲艦の動きはまるで映画の戦闘シーンを見るようである。揚子江の両岸、烏龍山からも劉子口からも猛烈な攻撃を受けながら勢多は進む。敵は12隻の船をワイヤーでつないで沈めてある。閉塞線である。
 12日の午後11時、閉塞線を爆破しようとする爆破隊を勢多が護衛し、13日の午前3時に水路を啓開した。時間からするとこれは陸軍の攻撃と並行して行われたようだ。
 13日午前10時、勢多が爆破水路を試航し、啓開を確認後、保津の後から南京に向かう。

 先輩の船に敬意を表し保津に先頭を譲る、そのような礼儀作法はなにかそこだけ別次元のような気もするが、軍隊というのは非日常の中にも日常がきっちり組み込まれているものらしい。

 当時のニューヨークタイムズに勢多が南京に残った外人記者を乗せて15日に上海に向かうと報じられているらしい。しかし、勢多は17日の入城式まで南京を離れなかった。当の艦長が語っているのだからこれは間違いあるまい。乗っていない船から捕虜を殺しているのを見たと記者は報じたことになる。


30)砲艦比良艦長 土井申二氏

 中国側は11月28日、揚子江閉鎖を各国に通達していたという。要路には閉鎖船が沈められ、機雷も敷設され、揚子江は完全に閉鎖されていた。閉鎖された中にパネー号やレディバード号がいたとすれば誤射という言い訳も説得力があるような気もするが、「撃ってやった」と豪語する日本の軍人もいたわけだから何とも言えない。

 砲艦比良は13日時点では、まだ鎮江におり、南京に着いたのは入城式の前日、もしくは前々日であった。比良は下関の下流にある中興碼頭に着く。そこは宝塔橋街といわれる中国軍の軍需物資の基地であった。軍需物資がたくさんありそのための引き込み線もあったとのこと。中国軍にはおそらくそれらの物資を持ち出す暇はなかったであろう。

 土井氏が出会った紅卍会の陳漢森という人物は、前述の吉永氏が出会ったという身なりのきちんとした中国人と同様、勝った軍とうまくやっていく術を心得ていたのであろう。感謝は嘘ではないだろうが、おそらく国民軍に対しても、ひょっとすれば後には共産党軍に対しても同じ態度で接していても不思議ではない。それが生きる術であったろうから。


31)上海海軍武官府報道胆道 重村実氏

 中国国民党軍との対峙が緊迫する中、揚子江上流の邦人引き揚げが、前述の砲艦比良によって実施されつつあった。引き揚げてきた人々の中には武官たちも交じっており、上海の武官府の中ではそのような人々がオフィスの中を右往左往していたことであろう。

 そんな中、8月9日、大山事件が勃発し、重村氏はその対処に追われた。この事件を機にようやく報道の任務が重要視されるようになっていく。

 上海の映画館ではガーデンブリッジの向こう側で反日映画がよく上映されていたという。いかにもおどろおどろしい映画が作られていたようだが、一般市民や外国人はこれを見て本当に楽しんでいたのだろうか。同じように日本が反中映画を作ったとしてもこのようなスタイルではとても楽しめないと思うのだが。
 戦後こういった映画が日本軍の残虐行為の証拠として使われたらしい。

 海軍は志願兵が多かったが陸軍は大部分が招集兵だったため訓練が行き届かず、命令がしっかり伝わらないことこともあったであろう、と、重村氏はどうしても海軍びいきになるようだ。
 海軍は粋、陸軍は無粋と、これがまったく嘘と言い切れないのはわかっているが、最近はこれも戦後定型化されたワンパターンの思考かもしれないと、思うようになってきた。海軍だって無粋な人もいただろうし、陸軍だって粋な人はいただろう。



32)第二連合航空隊参謀 源田実氏

 12月12日、第二連合航空隊麾下の第13航空隊はアメリカ砲艦パネー号を誤爆した。パネー号誤射事件は大きな外交問題となった。源田氏は実際にパネー号に発射した村田重治大尉を知る人である。村田大尉は後に真珠湾攻撃の時の電撃隊指揮官でもあったという。
 「アメリカにしても南京が戦場になっていることを知っていたのだから、もっと上流に避難すればよかったのに」と言われているが、同時に第二連合航空隊はパネー号が揚子江にいることを知っていたか、との問いに「たぶん、知っていたと思います」と答えられている。

 源田氏は翌年1月に日本にもどったので南京には3週間ぐらいいたことになる。南京に来てからはすぐ南昌、漢口への爆撃が行われその作戦に忙殺されていたという。南京陥落後、1938年の正月は南京で静かに迎えた、というものの、じつのところ、戦いはこの時もその後もずっと続いていたのである。


33)海軍従軍絵画通信員 住谷磐根氏

 戦争には石川達三氏をはじめ数多くの作家が参加していたが、画家も参加していたとは知らなかった。これは海軍や陸軍が独自に判断するものだったのか。いずれにしろ、このような芸術家の人々は戦争の是非を云々する前に本能的にそれを見たいという衝動に駆られたのではないかと想像する。
 住谷氏は同志社大学の教授であった長兄が危険思想の持主とされたため志願を却下されるが、あきらめず談判しようやく認めてもらえた。

 11月に上海に入り、12月に入って砲艦栂で南京に入ったのが陥落の日13日の夜。翌朝南京城に入る。城壁に縄がすだれのようにいっぱい垂れ下がっていたので驚いた、とあるが、これはおそらく中国兵が脱ぎ捨てたゲートルのことであろう。

 陥落翌日のことであるから日本兵はまだ城内にひそむ中国兵に対し神経を張り詰めていたはずだ。氏は中国兵に間違われないように必死になって日本の歌謡曲を歌っていたという。それは賢明であったろう。

 氏はそこで敗残兵の処刑を目撃する。氏はこれがのちに南京虐殺だと言われたものだとお考えのようだ。南京陥落は前日のことである。兵士たちの精神状態はまだ戦闘の真っただ中にあるとの認識であったろう。城内の敗残兵のみならず、日本兵が南京にたどり着く前に追い越してきた中国兵が追いついて日本軍を襲う、そんな状況であったのである。現に翌年の3月、太湖にいた日本軍が一万人の中国兵に包囲された。また南京から揚子江を渡って逃げた中国兵は4月には再び徐州で日本軍と戦っている。
 戦闘は上海からずっと継続中だったのである。


34)外務省情報部特派カメラマン 渡辺義雄氏
 渡辺氏は外務省から特派されたカメラマンだった。 カメラが庶民にも手が届くようになり、プロのカメラマンもその地位を確立し つつあった頃である。
 入城式の1日か2日前に南京に着いた渡辺氏は下関で日本兵が多くの中国兵 を斬首しているのを目撃している。入城式が17日でその直前の数日前という と14日、15日、16日、ということになるから前述の住谷氏が見たものと 同じ光景かもしれない。
 斬ることは公然と行われていたのかという問いに、「兵隊たちには仇をうった、 怨みをはらしたという思いしかなく、隠そうともしなかった」という。上海で大場鎮の激戦の跡を見ていた渡辺氏は残酷とは思いつつ、仕方がないと納得し た。前述の住谷氏が繰り返し強調されたように、この南京の戦いは、激烈を極 めた上海戦の続きであり、同時に次の戦いへとつながる通過点だったというこ とだ。
 渡辺氏らはその日大使館に行ったが、大使館ですら食糧がなかった。兵隊たちはできるだけ身軽になれるよう最低限の食糧しかもたず、入城した時点ではお そらく文字通り飲まず食わずであったろう。渡辺氏は、自分たちは上海から来 たのだから食糧をもってこようと思えばもってこれたのにと悔いたとのこと。
 翌年1938年の正月に氏は再び南京を訪れる。その時の南京の様子といえば 部隊はほとんど南京から去っていたので被写体となる兵隊はほとんどいなかっ たという。1937年12月13日に南京が陥落したあと、その年内のうちにほ とんどの兵隊が次の戦地に赴いたいうことであろう。彼らの頭の中にはすでに 次の戦闘のことしかなかったに違いない。
 あの有名な写真 上海停車場で泣いている子供の写真、は人々の心に深く残り非道な日本軍のイメージは出来上がった。偶然にも私が先日見た映画、It’s What I Do: A Photographer’s Life of Love and War の中に当時 の上海のシーンもあり、この写真が使われていた。父親付きで。
 渡辺氏は自分で撮った写真を各国の関係者に送ったがどれも採用されなかった。報道写真が印象付けに使われているかぎりそれも当然であろう。その使い方は現代ではますます巧妙になってきている。

 慰問袋を手渡す日本兵の周りに南京の人々が群がっている写真があるが、渡辺氏は宣撫班の活動を撮ることも仕事のひとつであったという。これはもちろん作戦上のことではあったろうが、戦後日本で子供たちが米軍のジープに群がり「ギブミーチョコレート」と叫んでいたのとはちょっと違う気がする。私は「ギブミーチョコレート」の世代より後の世代に属するが、大人になってその意味に気づき屈辱感に襲われたという人の話は度々耳にした。たしか野坂昭如氏もその一人だったと思う。

35)陸軍報道班員 小柳次一氏

 小柳氏は陸軍から派遣された。1937年の暮れに日本を立って翌年の元旦に上海に到着する。1月4日に南京に入って氏が真っ先に気が付いたのは城壁に縄がぶら下がっていたこと。これもゲートルのことかもしれない。

 ロバート・キャパのスペイン兵士の写真の真偽は当時から話題になっていたようだ。戦後アメリカ人の写真家からキャパのあの有名な写真をどう思うかと尋ねられ、小柳氏は自分の経験上、戦場でああいう写真は撮れないと答えたとのこと。

 本多勝一氏の「南京への道」に対し、それは「麦と兵隊」の火野葦平が従軍したコースだから火野が生きていれば面白い論争になったにと言われる。
 続いて、小柳氏は、「火野とは小林秀雄が芥川賞を杭州にもってきたとき一緒だったこともある」と、付け加えられている。小林秀雄も従軍していたとは知らなかった。そしてそんなところで芥川賞を受賞していたとは。
 また、この機に調べて初めて知ったが、火野葦平の死が自殺であったことに驚かされた。


36)領事館補 岩井英一氏

 東亜同文書院出身の中国通、そして外務省におられたとすれば当時の政争にも深くかかわっておられたのであろう。

 いったん中国と戦争をすればすぐには終わらないと思っていた、しかし、南京を攻略すれば講和に持ち込めるであろう - それが岩井氏の考えであり、それは松井大将にも伝わっていたはずだと岩井氏は語る。だからこそ、日本軍は上海から南京へ、すなわち首都攻略へと進んだのだ、と。
 ということは、上海派遣軍が出発した時点では南京攻略は公には伝えられていなかったわけである。とはいえ南京に進むことは誰もが予想しうることであり、南京さえ攻略すれば戦は終わると大方の人々は期待をもっていたに違いない。だが、その期待は大きくはずれた。


37)領事館補 粕谷孝夫氏

 1937年7月、粕谷氏はロンドンの大使館勤務から上海の総領事館勤務に移った。盧溝橋事件はすでに起き、上海での日中の衝突が迫る時期であった。粕谷氏は1938年1月に南京に赴き、その年の10月まで南京にとどまる。

 南京には各国の総領事館があり氏の任務はその各国の総領事館との交渉である。1月の時点ですでに店は開いており日本の商人もいたという。
 各国の領事館というのは南京攻略のときもずっと南京にとどまっていたのであろうか。あるいはいったん上海に引き揚げて日本軍の入城後にまた戻ってきたのであろうか。
 そもそも上海戦のときにはどうだったのだろう。
 各国の軍人や商人がそれぞれの利権を追い求め遊興にふける華やかな光の世界、そのかたわら裏で血みどろの暗躍が繰り広げられる暗い影の世界、その光と影が入り乱れる当時の上海というのは、戦争を横目で見ながらお茶をすすっているあやしげな人々で溢れかえっていたのではないかと想像する。

 1月26日、アメリカのアリソン領事の殴打事件が発生する。日本兵に強姦されたとする中国女性が犯人を捜そうと、アリソン領事、リグス金陵大学教授、そして日本の憲兵らと日本兵の兵舎に入ろうとし、激高した日本兵にアリソン領事が殴られたという事件である。
 南京陥落が1937年12月13日、この事件はそれからまだひと月あまりしかたっていない翌年1月26日の出来事である。東京裁判において、この時期にはまだ日本軍の残虐行為が続いていたとされる時期なのである。残虐行為が続いていたとする時期に、ひとりの中国女性の強姦事件を追及してアメリカ領事が日本兵の兵舎に入ろうとして兵士に殴られた。

 アリソン領事は日本に抗議し、その抗議の処理は本省に委ねられすぐに解決したという。

補遺

38)中支那方面軍参謀 吉川猛少佐

 屍体の始末が悪い、日本軍のみ片付け、敵軍のは放置とはけしからんと松井大将からこっぴどく叱られたとのこと。
 中国兵の屍体をぞんざいに扱っていると叱った大将が中国市民を虐殺したとして裁かれるのである。



39)第十軍参謀 寺田雅雄氏

 上海方面の戦闘が膠着して進展しないため、大本営は第十軍の杭州湾上陸を企画した。上海の膠着状態が長引き日本軍は困り切っていたのであろう。
 何が何でもこの杭州湾上陸は成功させねばならない。第十軍は上陸するやいなやまっしぐらに前進した。それは後方から食糧の補給を受けることは不可能だと知りつつ行われた。日本軍が非難されるのは糧を現地に求めたためであろう、と氏は言われる。

40)大十軍参謀 仙頭俊三大尉

  

41)侍従武官 後藤光蔵中佐
 侍従武官とは天皇に直接仕える武官だという。そういった武官が前線に赴くというのはどういうことか、伝達目的ということなのか。軍事に無知なものにとってこういう軍の階級や任務は理解を超える。


42)上海憲兵隊 岡村適三氏
 「日本軍の軍紀について特に聞いたことはないけれども、日本軍が威張っているということは聞きました」、と、岡村氏は書いておられる。

 威張っている兵隊は間違いなくいたであろう。弱い人間はとかく威張りたがる。軍隊にはあらゆる階層の人々がおりそれぞれが様々な背景をもっていた。威張る人もいたであろうし、それを苦々しく見ていた人もいるだろう。
 戦時中威張っていた人が戦後手のひらを返したようにおとなしくなったという話もある。
 だが、手のひらを返したのは軍人だけではあるまい。メディアの手のひら返しは軍人以上ではなかったか。そして大衆もまたそうではなかったか。


43)同盟通信 堀川武夫記者

44)朝日新聞 藤本亀記者

45)東京日日新聞 浅海一男氏

 浅海氏は阿羅氏のインタビューをお断りになった。記憶が不鮮明であるから、と。にもかかわらず、「この世紀の大虐殺の事実を否定し、軍国主義への合唱、伴奏となることのないよう切望します」、とのメッセージ。

 最も語るべきはずの方がなぜインタビューを断られるのか。

46)大阪毎日新聞 西野源記者

47)西本願寺 大谷光照法主
 18日の慰霊祭は大谷法主の手で執り行われた。法主はすでに占領の翌日に南京入りされたとのこと。翌日に南京に入ったということは、すでに中国の地、おそらくは上海におられたということか。

48)従軍作家 石川達三氏

 戦後、著者の「生きている兵隊」は南京事件を扱った小説といわれるようになった。

 氏の作品は小説である。想像をふくらませるような話があったのかもしれない。聞いたのかもしれない。そこではタルコフスキーの「アンドレイ・リュブロフ」のように、戦闘の乱暴狼藉の中で、僧侶の身でありながら思わず剣をとってしまうということもあり得よう。

 戦争という極限状態の中で、いかなる状況下でも踏みとどまれる強靭な精神をもつ人もいるであろう。だが、想像を絶する狂気に走ってしまう人もいる。それは日本人であれ中国人であれ米国人であれ変わりはない。

 
 死の直前に石川氏は阿羅氏への手紙で、「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません。」と述べられた。


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 阿羅氏が最初に出版された「聞き書き 南京事件」は1987年、この時点ですでに多くの方々が鬼籍に入られている。まさに最後の機会であった。

 今となっては手遅れだが、他の方々からもいろいろお話を伺いたかった。特に野戦高等郵便長など、戦線ではどういうやり方で仕事をされていたのか、さぞ興味深いご経験をおもちであったろう。

 

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