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翻訳こぼれ話(1)

翻訳こぼれ話(1)

 

訳歴も十数年を過ぎますと、いただいたお仕事の原稿もどんどんたまってまいります。そのままほうっておくとダンボール数十箱にもおよび、そうなるとさすがに日々の空間も脅かされてきますので、いつまでも保存しておくわけにはまいりません。大半は廃棄いたしましたが、このような処分にあたっては常に最大限の注意を払っておりますのでご安心ください。(ゴミ回収車に投棄される瞬間まで確認しております)

 これからお話することは、したがって、企業秘密に関わらない範囲のものにかぎられます。とりあげるのはすべて10年以上も前のジョブばかりですので、その点でご迷惑をかけるようなことはないでしょう。

 さて翻訳の仕事をはじめた当初、まず驚いたのは世の中には実に様々な種類の商品、仕事があるということです。なんといってもビジネスの世界のことですから、そうはいってもやはりその大半は堅い話になってしまいますが、当時は面白いものですと映画のシナリオの要約、ミュージカルのパンフレット(某劇団の大ヒットしたミュージカルです)、小説の切り抜き、新聞広告記事などもけっこうまわってきたものです。とにかく次にやってくる仕事はいつもまったく予測がつかないのです。

 商品については少し例をあげるだけでも、そうですね、たとえばテニスの一人練習用の機械のマニュアルとか、本物の植物の葉っぱに手を触れたら電気がつく仕掛けになっているプランターとか、そしてまた1940年代の米軍の航空部隊用のジャケットの仕様書とか、ペイントタイプの白髪染めとか、それからまた公害汚染源を測定するインパクターとか、ウォーターベッドの黴防止剤とか、びんのふた締め機とか、いやもうその多彩なこと。ご縁があったいただいたのですから、どの商品にもそれなりの感慨がいまなお残されています。

 

 送った翻訳文が認められ、はじめて翻訳会社からいただいた仕事はたしか日本のある地方都市の観光案内の英訳でした。それがもうひとつのトライアルだったのでしょう。引き続き英訳の仕事を2,3いただいたりして少し慣れたかと思える頃、はじめて英日翻訳の仕事がまわってくるようになりました。はじめての英日翻訳の仕事、それは国名は忘れましたがどこか英語圏の国の「コンドーム」の商品基準でした。

 受け取ったのがコンドームの仕事だとわかって「えっ」と思ったのはほんの一瞬のことです。コンドームであれなんであれ、お客様の大切な商品であることには変わりはありません。いつものことながら、納期は限られておりますので、すぐさま最大限の集中力を発揮して仕事を進めていきました。またそれは非常に厳しい商品基準でありまして、内容にしろ文章にしろ高度に技術的なもので、検査方法の個所など通常の科学論文となんら変わるところがありません。コンドームという商品がかくも厳しいテストを潜り抜けて出来上がっていくものだということを実感いたしました。
 ま、それでもいくら学術用語を使っているとはいえ、やはりその、ある部分ではほんのちょっぴりキーをたたく手が恥ずかしそうにしていたことを思い出します。

 

 もっとも、基準が厳しいのはなにもコンドームにかぎったことではありません。たとえば前述の米軍の航空部隊用のジャケットをとりあげてみますと、当然のことながら軍隊ではたとえジャケットといえども軍事仕様、いわゆるミリタリー・スペックに則って製造されます。その細かいこと、厳しいこと、糸目の折り返しひとつとってもじつに厳密な規定が定められているのです。

 この軍事仕様というのは一般の商品にもしばしば適用されているようで、「軍事仕様に準ずる」とあれば、それだけで通るといった例がよく見られます。かつてヘリコプターのメンテナンスの仕様書を手がけたことがありますが、その際もこの軍事仕様がたびたび引用されておりました。ヘリコプターのマニュアルともなりますとやはり並みの商品とは異なって全部を一人で引き受けることはできませんから、私がいただいたのもそのうちのごく一部、たしか塗装に関わる部分だったと思います。その塗装のごく一部だけでもかなりの量であったと記憶しております。

 そのときそこで引用されているミリタリー・スペックの第何巻、第何条、第何項、といったその項目の長さを見て、このスペックの全体像とはいったいどれほどの量になるのかと翻訳の合間にぼんやり考えたこともありました。考えても見てください。塗装というたったひとつの作業ですら(もちろん作業の重要性はみな同じでしょうが)これだけ膨大な規定があるのです。その残りの部分を考えると、いやもう想像もつきません。 このような仕様書では、しばしば、「ただし、本工程、本素材、本技術を上回るものが開発された場合には前述に拘泥しない」といった旨の記述があって、なかなか合理的だと思ったものでした。たしかにこう技術開発の進歩が早いと既存の仕様に固執していてはどんどん遅れをとってしまうでしょう。それにしてもコンピューターのなかった時代はこのような仕様書も改定されるたびにいちいち作り直していたのでしょうね。その作業はまた膨大なものだったに違いありません。

 

 また当時はフランチャイズの業務用マニュアルの仕事などもよくいただいておりまして、いまでこそ接客マニュアルなど当たり前のように思われているようですが、はじめてこのような種類のマニュアルを手がけたときは、うーん、なんとここまで細かく指導するのかと感心したものです。フランチャイズにかぎらず、いただいたジョブの半数以上は米国からの発信ですが、フランチャイズというのはいかにもアメリカというお国柄を反映した合理的システムだといえましょう。

 このように産業翻訳というのは溶接、めっき、金属精錬、電子バルブ、超音波センサー、充填機(何の脈絡もありませんが、思いついたまま過去の仕事を羅列しております)といった、誰にでも明らかに「産業」と定義されるものから、いままで定義も定かではなかったサービス分野へとますます幅広く拡大しつつあります。インターネットというのは企業の立場から活用されているのはもちろんですが、個人としてご利用になる方々もますます増大する一方です。そのようなインターネットで飛び交う英語はさらに実用性を要求されることでしょう。

 

 

 

翻訳こぼれ話(2)


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